2006年1月2日 (月)  謹賀新年

皆様へ

明けまして、おめでとうございます。

スイスというのは、どうやらクリスマスから大晦日に掛けてがメインのようで、元旦になった途端、年末の喧騒が嘘のような静けさです。

かくいう我が家もその仲間なのですが、私の頭はといえば、暮れからのお酒がまだ抜けないまま、半分眠っているような状態です。
日記の更新をしようと思っても、「ああ、そういえばシャンペンが一本残っていたっけ。飲んじゃおっかな?」などという考えが先に浮かびますし、隣では夫B氏が邪魔をしますし、なかなか集中出来ずにいます。

ということで、HPの方は、ゆっくりと始めて行こうと思いますので、もう少しお待ち下さい。
クリスマスや新年に頂いたメールへのお返事や、皆さんのサイトへのご挨拶も、まだ出来ずにいますこと、お許し下さい。

では、今年もどうぞよろしくお願いします。   みんつ

2006年1月4日 (水)  お詫び

皆様へ

私、只今夫B氏からスキーの特訓を受けております。

安かったとはいえ、新品のスキー・セットを買ってもらった手前、「今日は家でのんびりしたい」とは言えません。
明日も早起きして、午前中からスキーです。

言葉もろくに話せないほど小さな子供たちに混ざって、ポニー・リフトにしがみついているため、私の両腕は既に筋肉痛ですが、そんなことはもちろん取り合ってはもらえません。

ということで、日記の更新はもう少し先になりそうです。
メールや掲示板のお返事も、送れがちで申し訳ないのですが、必ずしますので、もう少しお待ち下さい&引き続き、私抜きでも楽しんでいて下さい。

では、今日はもう寝ます。
お休みなさい。       

                 みんつ

2006年1月8日 (日)  ラスト・クリスマス 1

最初の年、私は好奇心一杯で参加しました。

家族が一堂に集まって、温かい食事の盛られた食卓、暖炉やろうそくの火、綺麗に飾られたもみの木などを囲み、愛情溢れる雰囲気の中で行われる……そんなクリスマスを想像していた私は、実際にそれを体験する機会に恵まれ、喜んでもいました。

その年の参加者は、義祖母(90才位)、義おば(85才位)、義父母、義兄夫妻、夫B氏と私(当時はまだ結婚していませんでしたが)の8人で、義父母宅でクリスマス前日から新年に掛けての数日間を一緒に過ごしました。

参加者の中で最後に到着した私が、最初に感じたのは、「何だか空気が張りつめている」ということでした。
皆が居間のソファーに座り、それなりにお喋りなどをしてはいるのですが、その様子は、高級ホテルのロビーにでも座っているといった感じでしたし、義祖母の口はへの字にぎゅっと結ばれていました。
着ている服も私やB氏のような普段着ではなく、正装に近いもので、女性達はお化粧すらしています(スイスでは、特別な場以外では、化粧をしない方が一般的なのです)。

もう一つ気付いたのは、もみの木の下には、色とりどりの紙で包まれたプレゼントが置かれているのですが、その数は参加者の人数よりも遙かに多いのです。
一目で私は、持参したささやかな手作りプレゼントが、酷く場違いであることに気付きました。

夕飯が始まると、義母はまるでウェイトレスか何かのように、ひっきりなしに台所と食卓を行き来し、「もう良いから、座って一緒に食べよう」という皆の言葉とは反対に、一人でどんどんストレスを溜めて行きますし、義姉は、義母が作ったこの州の典型的なクリスマス料理に、「これは好きじゃない」だの何だのと、勝手なことを言っています。
食事自体は美味しいものでしたが、私には、家族でする祝いの食事が、なぜこんなに堅苦しいものなのか、全く理解出来ませんでした。

その後、どう見ても開けた瞬間に「こんなのどうするの?」と思うようなプレゼントを幾つも交換し合い、その度に大げさに「まぁ、素敵なプレゼントをありがとう」と握手やキスを交わし、下手なお芝居でも演じているような時間が過ぎた頃、義母の眉間の皺が、いっそう深くなりました。

誰がどの部屋を使うか、という問題が起ったのです。
義父母宅にある、客が使える部屋は3つですが、私たちは4組なのです。
簡単に考えて、義祖母と義おばに1部屋を共有してもらい、年齢の高い順に大きな部屋から割り当てれば良いのではないかと思うのですが、義母の考えは違うようです。
まず、義兄夫婦が一番良い部屋を与えられました。そして何故か、次に大きな部屋は、私とB氏が使って良いとのこと。

しかし、高齢の夫婦でもない二人が部屋を共有するには、最後の部屋は小さ過ぎます。
結局、小さな部屋を義祖母が使い、義おばはちょっとしたホールのようになっている所に寝ることになったのですが……ここには仕切りも何もなく、居間や他の部屋からも丸見えな上、トイレへの通り道なのです。
85才の義おばには、どう考えても適切な場所とは思えません。
ところが、「私とB氏が小さな部屋に寝て、義祖母と義おばが私たちの部屋を使ってはどうか」という私の提案に、義母は最後まで首を振りませんでした。

翌日から新年に掛けても同じ状態が続き、義母の眉間の皺は一向に消えませんし、義姉の独壇場は続くばかり……。

これが、私の経験した最初のクリスマスです。
我が義家族だけがそうなのか、それとも、スイスの家庭全般の傾向なのかは、他所のクリスマスを知らない私には分りませんが、少なくとも私には、居心地の良いものではありませんでした。

そして、その感触は、2度目のクリスマスで更に強まる事になりました。

              〜次回へ続く〜

2006年1月9日 (月)  ラスト・クリスマス 2

             〜前回からの続き〜

2度目は、いくらか不安な心持ちで参加しました。

前回のクリスマスだけが、たまたまああいう雰囲気だったのか、それとも、いつもそうなのか、私には分りませんでしたし、たった一回の経験で全てを決めてしまうのもどうかと思ったので、もう一度参加してみることにしたのです。

今回の参加者は、前回に加え義兄家の長男H太(生後数ヶ月)で、やはり、クリスマス前日から新年に掛けてを皆で一緒に過ごしました。
ただし義兄夫妻は、クリスマス翌日に妻の実家であるイギリスに行くとのことです。
それから、去年のことがありましたので、私たち夫婦は「今年は、プレゼントは無しで」という約束もしていました。

さて、蓋を開けてみると……
まず、義姉が嫌いだという理由で、この州の典型的なクリスマス料理である、大麦やたくさんの野菜がごろごろ入ったスープと、ステーキが廃止になりました。
その代りに、義姉の好きな、くたくたに煮込まれ殆どペーストになってしまったほうれん草の上に、生臭い白身魚が乗ったものが出て来ました。

そして、やはり義姉の希望で、H太が寝ている時は、皆ささやき声で話をしなければなりませんでした。
H太が寝ているのは2階の個室で、私たちがいるのは1階の居間でも、です。

また、義祖母と義おばは、高齢のため信用出来ないという理由で、H太を抱くことは許されませんでした。
義姉がトイレなどに立つ時には、H太は義母に預けられ、義母も義祖母や義おばには、決してH太を抱かせようとしませんでした。
ひ孫を抱けない義祖母の気持ちについては、誰も触れませんでした。

男達は黙りを決め込み、義祖母と義おばは行儀良く座り、義母は義姉の顔色でも窺うかのように細やかに動き、義姉はプリンスを産んだ女王とでもいうような振る舞いで、クリスマスを楽しんでいたようです。
その時ちょうど体調を壊していた私は、クリスマス当日には高熱を出しました。

ちなみに、「プレゼントは無しで」と言ったにも関わらず、やはり大量の欲しくもない品物が交換され、何も持たずに行った私たち夫婦は、昨年以上にばつの悪い思いをしました。

26日になり、義兄夫妻がイギリスに発つために義父母宅を後にすると、義母は真っ先に私の背中を叩いて、こう言いました。
「さあ、みんつ、今日からは羽を伸ばせるわよ」
そして、その日の夕飯には、大麦や野菜の入ったスープとステーキが出ました。

これが2度目のクリスマスです。
この後、風邪をこじらせて寝込んでしまった私は、「今後は、クリスマスを辞退しよう」と心に決めたのですが……

               〜次回へ続く〜

2006年1月10日 (火)  ラスト・クリスマス 3

               〜前回からの続き〜

3回目からは、何とか辞退しようとしました。

既に2度試したわけですし、私はキリスト教徒ではありませんので、クリスマスをどうしても祝わなければいけない理由はない、と思ったのです。
ところが義母の考えは、違ったようです。
スイスに暮らし、スイスの義家族を持った以上、クリスマスはやらねばならない家族としての義務、というわけです。

ですから、ただ家にいて普通の日として過ごす、ということは許されません。
仕方がありませんから、私たち夫婦は、国外旅行に出ることにしました。
口実は、こうです。
「B氏は、この時期しかお休みが取れないから、せめて趣味の旅行にこの期間を使いたい」

B氏の旅行好きは皆知っていますから、義母も正面からは否定しませんでしたが、それでも何やかやと理由を付けて、遠回しに私たちの旅行を非難しました。
例えば、私たちが旅行のことを2週間前に知らせようが、2ヶ月前に言っておこうが、出発前日まで、顔を合わせる度に(そうでなければ電話の度に)「貴方たちは、本当に旅行に行くの? どうしても行かなくてはいけないの?」と聞きます。
私たちが何度も、「既に飛行機のチケットを買ってある」と言っているのに、です。

また、私たちが発つ直前には、「電話、手紙、メールのいずれかでクリスマスに連絡を入れること」という条件が付きます。
私たちの旅行先が、あまり観光客の行かないような場所で、そういう連絡手段があるかどうか分らないとしても、です。
旅先で私たちは度々、義母にメールをするだけのために、インターネットの出来る場所を探さなくてはなりませんでした。

私の記憶にある限り、「余計なことは気にしないで良いから、楽しんでらっしゃい」と、義母が私たちを快く送り出してくれたことは、一度もありません。
私たちが5年ぶりに日本に帰国した時などは、私の実家に毎週電話がかかり、「いつ帰って来るの?」と聞かれました。
日本にいてすら、私たちはクリスマスから逃れられなかったのです。

さて、私たちが色々と試し、これ以上どうしようもないと思っていた頃、義兄C氏が私に言いました。
「みんつ達は、今年のクリスマス、どうするの? うちは、正直言って、子供を3人連れてお袋の所に行くのは、大変なんだよ」
私は、義兄がどうしても義父母宅でクリスマスをしたい、と考えているのではないと知り、ほっとしました。
「C氏の所は子供もいて、もう立派な家族なんだし、自分たちで祝っても良いんじゃないの?」
この一言がヒントになったのでしょうか、その年の暮れ、義兄から電話がありました。
「今年からは、我が家でクリスマスをしようと思うけど、来るかい?」
この申し出は、義父母宅のクリスマスに辟易としていた私たちにとって、渡りに船です。
私たちは快く承諾し、こう付け加えました。
「プレゼントは、子供達には持って行くけれど、大人には無しで。私たちにくれるのも、遠慮して欲しい」

今度は、義兄夫妻が主導権を握るクリスマスです。
義母もストレスから逃れられますし、ひょっとしたら和やかなものになるかも知れません。

私は、もう一度クリスマスを試してみよう、と思いました。

              〜次回に続く〜

2006年1月11日 (水)  ラスト・クリスマス 4

               〜前回からの続き〜

義兄宅でのクリスマスは、私の予想とは裏腹に、よりややこしいものとなりました。

26日からイギリスに発つ義兄夫妻は、私たち夫婦を23〜25日まで泊まりがけで、義父母と義おばを25日の午後からのみ招待しました(義祖母は高齢で様態が悪く、不参加)。
しかし、義おばは義兄宅でのクリスマスに1度参加しただけで、それ以降は辞退し、例年通り義父母宅に滞在するというのです。
これが、自分の家でクリスマスを祝いたかった義母にとっては、調度良い理由になりました。

私たち夫婦に、「26日から新年に掛けて、義父母宅に滞在してはどうか。もしくは、少なくとも義おばに会うために、夕飯にぐらいは来ても良いのではないか」というお誘いがかかったのです。
このお誘いですが、もちろん義母にとって、断られるということは、計画に入っていません。

義兄宅でクリスマスをすることになった最初の数年間は、義母、義姉、私たち夫婦で三つ巴の戦いとなりました。
ある年は義姉がバス・ルームに駆け込んで泣き、ある年は義母が口も利かずに夕飯を支給し、ある年は私たちが我慢して全てのプログラムをこなし……。

そして、回数を重ねるごとに、参加者の持ち寄るおよそ意味があるとは思えないプレゼントの数は増え、着ていく服もより正装へと近くなり、会話もより中身のないものになって行きました。
チキンの焼け具合が悪いからと、義姉が私たちの目の前で夫である義兄を怒鳴り、義兄は子供を怒鳴り、義母は義姉におべんちゃらを言い、義父と夫B氏は、ただ黙ってプログラムをこなす、というのが我が義家族のクリスマスです。

私には、これだけでも十分に疑問ですが、最も信じられないことは、その物質の多さです(義おばの辞退理由がこれでした)。
一人の人物が、別の一人の人物に複数個のプレゼントを贈るため、もみの木の下は、ものすごい数の箱が積まれ、そこに置ききれなかった物は、別の部屋に置いてあるのです。

皆さん、想像出来ますか?
小さな子供達が、「もう箱を開けるのは嫌だ」と言って泣くほどの量のプレゼントを贈る家族を。
子供達はその溢れかえった物質の中で、既にどれにも興味を示さなくなっているのに、です。

帰りの車の中では、「こんなのもらっても困るのよね」と、義姉からのプレゼントに義母が溜息を吐きますが、自分のプレゼントもそう思われている、ということには思い当たらないのでしょうか?

私には、この義家族の祝うクリスマスの意味が、全く理解出来ません。
毎回割れるように痛む頭を抱え、遠い道を帰って来ることに、どうしても意義が見出せません。

「私、クリスマスは今年で最後にする! 多分もめると思うけど、良いかな?」
去年の暮れ、思い切ってそう言った私に、B氏も言いました。
「俺の家族は、みんつの意思を尊重すべきだ。もしごちゃごちゃ言うようなら、俺もクリスマスは止める!」

そして、私にとっては、最後となる筈のクリスマスがやって来ました。

               〜次回に続く〜

2006年1月12日 (木)  ラスト・クリスマス 5

             〜前回からの続き〜

暮れになり、いつものように義兄夫妻から、クリスマスについての打診がありました。

電話を掛けてきた義兄に、私は、もめるのを覚悟で打ち明けました。
「25日の午後に行きます。プレゼントは、例年通り子供にだけで。……それと、私は、今度のクリスマスで最後にしようと思うの。今まで10年間、色々な形で試してきたけど、キリスト教徒でない私にとっては、やっぱりクリスマスは、静かに普通の日として過ごしたいの。子供達の事を考えると、祝ってやった方が良いのかとも思うんだけど、クリスマスのない国があるって知るのも、彼らには悪くないでしょう?」
これを聞いた義兄は、あっさりと言いました。
「ああ、好きにすると良いよ。何も俺たちだけのために、みんつが無理をすることはないから」

また、夫B氏は義父母に電話でこう伝えました。
「今年は、夫婦二人だけで車で行く。クリスマスを祝うのは、25日の義兄宅のみで、義父母宅には行かない。プレゼントは受け付けない」
電話を受けた義父も、特に問題もなく了解したようです。
ちなみに前年までは、24日の晩を義父母宅で祝い、そのままそこに泊り、翌日一緒に一台の車で義兄宅に行き、一緒に帰って来たのです。

第一の関門は、どうやらクリアです。
問題は、義兄がこれを義姉や義母に伝えるのかどうか、伝えたとしたら、その反応はどうか、です。
私は、特別な画策などせずに、流に任せることにしました。

さて、クリスマス当日です。

義兄宅についた私が最初に受けたのは、義母のこの台詞です。
「あら、みんつ、別に無理にキスをしなくても良いのよ」
私がもうクリスマスを祝わないつもりでいることを、義兄から聞いたからなのか、それとも他の理由があるのかは、私には分りませんが、スイスでは、一度頬にキスをする挨拶を始めたら、握手には戻らないというのが礼儀なのです。
握手をしようと右手を差し出す義母に戸惑いながらも、これから始まるクリスマスが、私のせいで険悪になるのもどうかと思いましたので、一応頬にキスをしました。

怒鳴り合い、多すぎる物質の交換、義姉に対する義母のおべんちゃら、義父とB氏の黙りは、焼き過ぎで固いチキンや崩れた野菜と同じで、いつも通りでしたが、今回は一つだけ、目立った違いがありました。
昼12時過ぎから夜9時頃まで行われたパーティーの間、義母は金魚の糞のように義姉の後を追い、私とは一言も口を利かなかったのです。

いえ、正確に言うなら、一言だけ話したのですが、それは私には侮辱と感じられるものでした。
「日本の甘いものは、魚で出来ているのかい?」
そう言う義兄の冗談に、私が笑って否定した時、何故か義母が、きつい調子で口を挟んだのです。
「ええ、そうよ。日本の甘いものは、魚で出来ているのよ」
もちろん誰も、義母の意図が分りませんでしたし、笑いもしませんでした。

全てのプログラムが終わり、ちょうど帰る時間が重なった私は、義父母に「車で一緒に帰りますか?」と聞きました。
どうせ同じ方向なのだし、これから電車で帰るのは大変だろうと思っただけなのですが、私は、まだ甘かったようです。

               〜次回に続く〜

2006年1月13日 (金)  ラスト・クリスマス 6

             〜前回からの続き〜

帰りの車中では、更なる攻撃が待っていました。

B氏が現在遠くで働いているため、我が家の新聞は、B氏の借りているアパートの方へ送られるようになっているのですが、それに対してこんな会話がなされました。
(ちなみにこの新聞は、誕生日プレゼントとして、義父母がB氏の名前で購読しているものですから、私にしてみれば、これはB氏の物で、それがB氏のアパートへ送られるのは、当然のことです。)

義母:「あら、それじゃあ、みんつは新聞が読めないじゃない」
B氏:「みんつは、どうせ新聞を読まないから」
義母:「どうして? ドイツ語の練習に必要でしょう?」
話の方向が、何だか怪しい雰囲気になり出していたので、私はこの会話を笑いで終わらせようと思いました。
私:「新聞はほら、悪いことしか書いてないから」
義父もB氏も笑いましたが、義母は、それでは済ませたくないようです。

義母:「世の中で何が起っているかを知るのは、大切な事よ」
真面目な調子でそう言う義母に戸惑いつつも、こんな所で口論などしたくなかった私は、また軽い調子で言いました。
私:「ああ、それなら、インターネットやテレビがありますから、大丈夫です」
ところが義母は、まだ終わりにしてくれません。
義母:「でもね、新聞の方が簡単よ。朝食を食べている間に、世の中のことが分るわ」

正直なところ私は、誰かと一緒に食事をしているのに、新聞などを読んだり読まれたりするのは、好きではありません。食事をしている相手にも、その食事を作った相手にも失礼だと思うので、我が家では食事中に何かを読むという様なことは、普段からしていません。
しかし、私だって分別がありますし、ここでは敢えて言いませんでした。
その代りにもう一度、笑いで収めようと試みました。

私:「私、殆ど朝食は摂りませんし、寝起きが悪くて頭もぼーっとしているから、例え日本語だとしても、朝から真剣に新聞を読むのは無理です」
ところが義母は、どうしても私をやり込めたかったようで、車内の白けた雰囲気にもお構いなしに、言いました。
義母:「それじゃぁ、もっと頭を鍛えるのね!」
いくら私でも、これ以上は十分です。
もう冗談を言う気にはなれませんでしたし、雰囲気に気を使うのも馬鹿らしくなり、義母の好きにさせることにしました。
その後、家に着くまでの道のりは、皆にとって重苦しいものとなりました。

今までどんなに私やB氏がはっきり希望を言っても、それが義母の意向に沿わないものである場合は、全て無視されて来ました。
今回でクリスマスを最後にするという私の希望も、到底義母の気に入るものとは思えませんから、次のクリスマスにどんなことが待ち受けているのか、私には分りません。
ただ、一つだけはっきりと分っていることは、もう私は、義家族とのクリスマスを祝うつもりはない、ということです。
その思いを込めて私は、車を降りた義母と握手をして来ました。 

……けっ、ケツ捲ってやる!

2006年1月16日 (月)  夫の書斎 2






←夫B氏の手作り
PC周辺機器用棚



上の画像には、間違いが一つあります。

答えは……










『B氏へ

ジーパンは、PC周辺機器とは認められません。』

2006年1月18日 (水)  停電の贈り物

これは、私がホテル内のレストランで働いていた時の話です。

そのホテルには、日本料理とフランス料理のレストランが、隣同士に並んでいて、私は基本的に、日本料理レストランの方で給仕をしていました。

ある日、客の入りもそろそろ乗って来たという頃、突然停電になりました。

海外の日本料理レストランには良くあるのですが、そこのレストランでも、コックが客の目の前で調理をする(スイスなどでは、これは珍しいのです)、鉄板焼きが売りでしたが、電気がないことには、その鉄板に着火することが出来ません。
もっと悪いのは、スイスでは、台所が電気仕掛けになっているのが一般的でして、簡単に言ってしまうと、電気がないことには、厨房の方もお手上げなのです。

私が、急いで隣のフランス料理レストランを覗くと、あちらも停電です。
どうやら、ホテル全体、もしくは地域全体が停電になったようです。

日本では考え難いことですが、スイスでは、事前に何の連絡もなく、地域全体が一定時間停電になるというようなことは、案外良くあるのです。
何かの理由があって、わざと停電にしたのか、単なる故障なのかは、私には分りませんでしたが、少なくとも、ブレーカーを上げればレストランの電気がすぐに使える、ということでないのは明らかでした。
それどころか、ひょっとすると数時間そのままである、という可能性もあります。

私がまず考えたのは、既に席に着いている客に、何らかの説明をしなければならない、ということでした。
鉄板が出来ないのですから、注文を変更してもらわなければいけませんし、場合によっては、「それなら帰る」と言われることもあるでしょう。

私は急いで厨房に飛び込むと、コックに聞きました。
「電気がなくても出来るものは、寿司と刺身以外では、何ですか?」
すると日本人のコックであるY氏が、言いました。
「みんつちゃん、確か、フランス料理レストランの方にある、フランベの台はガス・ボンベだったよね? あれ、持って来てくれないか?」
(フランベとは、強いアルコールをかけて、ボワッと火を点ける料理で、そのレストランでは、給仕が客の前でやって見せるのです。)

私は全ての客に事情を話し、「注文の鉄板焼きを、厨房で焼いて出しても良いか?」もしくは、「寿司か刺身に替える方を希望するか?」と聞いて廻ると、フランベの台を取りに行きました。

すると、台をごろごろと押している私に、ドイツ人のウェイトレスであるU嬢が、近寄って来て言いました。
「みんつ、私にもそっちを手伝わせて欲しいのだけど、良いかしら?」
「もちろん良いけど……そっちだって停電は同じだし、大変でしょう? 良いの?」
不思議そうな顔で聞く私に、彼女は言いました。
「フランス料理の方のスタッフはね、『停電なんだから仕方がないじゃない。私たちのせいじゃないわ』って言って、誰も何もしようとしないのよ。コックの方も同じよ。でもね、今、みんつたちが何とかして、こんな状況でもお客さんにサービスしようとしているのを見て、私もそっちで働きたくなったの。仲間に入れて」

それ以来、彼女は自分の手が空くと、進んで私を手伝いに来てくれるようになりました。
日本料理にも興味を示し、「自宅で、生のたこで寿司を作ってみた」などと言って、私を驚かせたりもしました(スイスの魚介類は、必ずしも新鮮とは言えないのです)。

「正しいことをしていれば、主張しなくても、いつか分ってもらえる」
こういう日本人の精神文化は、残念ながらスイスでは、通用しない場合が圧倒的に多いのですが、それでもごくたまに、そこに惹かれる人たちもいます。
何か、自分たちにはない深いもの、を感じ取ってくれるようです。
そして、そういう人たちとは、無理なく友達になれます。

……日本人としての良さ、やっぱり守りたいな。

2006年1月20日 (金)  台所の掟

何度か書いていますが、私の周りの男性は、皆さん料理が上手です。
しかも、好きでもあるようで、ごく日常のこととして、気軽に台所に立ちます。

我が夫B氏もその例に漏れず、「週末しか戻らないのに、料理までさせたのでは申し訳ない」と思った私が、上げ膳据え膳の週末を暫く続けていたら、「今日は、俺が料理するから!」と、帰って来るなり言われたことがあります。
平日に簡単なものしか食べていなかったB氏は、どうやら、料理をしたかったようです。

それ以来、良い妻である私は、週末になると「今日は、B氏のステーキが食べたいなぁ」などと言って、夫の楽しみを奪わないように心がけています。
最近では、B氏も分っているようで、私の顔を見ると、「みんつは、俺がいないとまともな食事をしないからな」と、栄養のバランスにまで気を使ってくれます。

そんな我が家の台所には、掟が一つあります。
それは、『料理は一緒にしない』です。
片方が料理をしている時、もう一方は、一切手を出さない決まりなのです。
料理をしていない方は、テレビを見るなり、つまみを持って晩酌をするなりして時を過ごし、相手を手伝ってはいけないのです。
ですから、料理をする方は、大抵、最初に相手のためのつまみを作ります。

去年の暮れのことです。
クリスマス後から新年にかけて、友人夫妻が、我が家に泊まりがけで遊びに来ました。

この夫婦は、妻がフランス語系スイス人、夫がアメリカ人なのですが、この夫E氏がまた、大の料理好きなのです。
私達夫婦が首都ベルンに住んでいた時、E氏は仕事の関係で、週の二日ぐらいを我が家で過ごしていたのですが、彼が泊まりに来る時には、いつも手の込んだ料理と美味しいワインが、食卓に並んだものです。
また、物のない我が家では、E氏が必要な調理器具のない場合もあったのですが、そういったものは、彼が買ってくれました。

そのE氏夫妻が泊まりがけで遊びに来るとなれば、私は当然期待をしますし、E氏もその期待に答える気は、十分だったようで、毎朝、ふんわりと泡の立ったミルク・コーヒーや新鮮なフルーツ・サラダが、私達の起床前に用意されていました。

そして大晦日です。
スイスの大晦日は、親しい友人などと一緒に、年の変わり目のカウント・ダウンをして、シャンペンを飲んだりするのですが、今年は、近くに住む友人カップルが、我が家に来るということでした。

「今夜は、俺が作るから」
朝からそう言うE氏に、私は、喜んで買い物に付き合い、「今夜は、U氏たちも来るって言ってたよ」と忘れずに伝えました。

さて、夕方になり、E氏が台所に立つと、ちょっとしたことが起りました。

スイス人のカップルは、二人で一緒に料理をする場合が多いのですが、どうも彼らは、これを重要なことと考えているようなのです。
何というか、一緒に料理をするのは仲の良い証拠、とでもいうようなイメージなのです。
もしくは、片方だけにやらせるのは失礼、とでもいうような。

E氏夫妻もそう考えているようで、二人は一緒に料理を始めたのですが、
「ああ、オーブンは開けるなよ」
「そんな少しのことで、騒がないでよ」
「もう少し待ったら出来るんだから、パンは要らないだろ」
「お腹空いちゃったのよ」
「パスタは、クリーム・ソースが良いわ」
「チキンがオレンジ・ソースなのに、パスタがクリームじゃ、合わないだろう」……

年が明け、E氏夫妻が帰った後、私達夫婦はどちらからともなく言いました。
「うちは、今まで通り、料理は別々でやって行こうね」

……これが、我が家の夫婦円満の秘訣です。

2006年1月22日 (日)  お知らせ

皆様へ。

月曜日から1週間、また夫B氏の仕事にくっ付いて、イタリア語圏の方に行って来ます。

ですから、日記その他の更新は、1週間お休みします。
(掲示板の方は、いつも通り皆さんでお楽しみ下さい。)

町の様子など、既にご紹介しましたし、特に目新しいことはないかも知れませんが、ネタを探して、色々と観察して来ようと思います。

では、行ってきます!

                 みんつ

2006年1月29日 (日)  クイズ

イタリア語圏のスイスが大雪で、あちらもこちらもパニック状態になっていたというのに、帰って来た我が家は、「もう春なの?」というぐらい、暖かいのです。
今日も冬用のジャケットでスキーをしていたら、手袋の中まで汗びっしょり。

こんな時は、家にいた方が良いのですが……
へそ曲がりな私は、もう一週間、イタリア語圏に行って来ます。

ということで、日記はもう少しお休みです。

代りといっては何ですが、私のいない間のお楽しみとして、クイズを出して行くことにしますので、皆さんで、ああでもない、こうでもないと、考えていて下さい。
(スイスにお住まいの方、偶然正解を知っている方は、皆さんの答えが出揃った頃にお願いします。)
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では、問題です。

Q1
下の画像は、プラスティックで出来た小さな王様(約3cm)なのですが、ある食べ物の中から出て来ました。
さて、その食べ物とは何でしょう?


Q2
次の単語は、皆さんも良くご存じの、スイスのある都市の名前です。
それは、どこでしょう?
【Genf(読み方:ゲンフ)】

Q3
スイスの国外であるにも関わらず、世界中で唯一、スイス人だけが就くことの出来る仕事が、1つあります(私が知らないだけで、もっとあるかも知れませんが)。
それは、何でしょう?

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正解の発表は、スイス時間の土曜日の予定です。
当たっても、何も景品はありませんが・・・

では、行って来ます!

2月の日記へ