2007年1月2日 (火)  新年のご挨拶

皆様へ

明けましておめでとうございます。

昨年は、私のホーム・ページを訪ねて下さり、本当にありがとうございました。

こうして、この場で皆さんとお話し出来るおかげで、窮屈なスイスでの生活が、私にとっては、癒されるだけでなく、笑いのネタにすらなっています。

今年も、どうか、よろしくお願いします。

それから、日記の更新は、もう少し(2〜3日)お休みしますね。
ええと、お正月休み、というところです。

では、今年も一緒に、楽しく行きましょう!

                   みんつ

2007年1月8日 (月)  小説より奇なり 序章

スイス人は、大体において保守的です。

「今までそうして来たから、これからもそうして行く」
それがたとえ「正しい道ではない」と分っていても、そんな風にして突き進んで行くスイス人は、案外たくさんいます。

ですからスイス人は、新しいものが入り込んで来ると、まず「ナイン(nein=いいえ)」と言います。
考える前に、とりあえず「ナイン」です。
その後たっぷりと時間を掛けて、そろそろ皆が忘れ出した頃に、そろそろ〜っと、何だかはっきりしない浸透の仕方で、その「かつては新しかったもの」が普及します。

製品にしても流行にしても、次々と現われては移り変わって行く日本にいて、その波に全く乗れていなかった私にしてみれば、このスイスのやり方は、確かに気楽ではあるのですが、実は、大きな問題もあるのです。

それは、このスイス人のやり方が、人間にもそうである、という事です。

そう、ここでは外国人である私自身が、スイス人からしてみれば、「新しいもの」「今までとは違うもの」「とりあえず、ナインと言っておくもの」なのです。
もちろん、スイス人は礼儀正しい国民ですから、あからさまに否定的な態度を取ったりはしませんが、スイス生活12年目に入った今、つくづくと感じることがあるのです。

例えば、こんな事です。

知り合ってから既に10年以上にもなる知人達が、最近になって、私に過去を語り始めたのです。

これは、「やっと私を信用してくれた」という事でしょうから、喜ぶべきでしょうが、その話を聞いて私が感じるのは、正直に言うならば、「えっ、それじゃ私は、今までとんちんかんな付き合い方をして来たってわけ?!」です。
10年も経ってから、「今まで知っていた人が、実はそういう人ではなかった」と知らされるのは、複雑なものがあります。

だってね、結構ヘビーな話なんかもあるわけです。

私は凡人ですから、そんな話を聞いた後では、「この人と健康的な友人関係を結ぶのは、本当に可能かしら?」とか「過去10年間の関係は、お芝居だったの?」とか「こんなやり方じゃ、本当の友達が出来るまでに、お婆ちゃんになっちゃうよ」等と思ったりもするのです。

ごくごく普通の日本人として育った私には、彼らの話は、まるで映画や小説の中の出来事ですが、ここスイスでは、そんな人達がごろごろといるらしい事も、私には大きな驚きです。
『普通の人』の層が、日本と比べてとても複雑らしいスイスで、私は今、幾分戸惑っています。

今回は、そんな話を幾つかしてみようと思います。

ちなみに、私はここで、「スイス人」という書き方をしていますが、それは「スイスで知り合った人達」「スイスに関係している人達」「スイスで生活経験のある人達」等という意味で、正確には、ドイツ人やイタリア人、その他混血の人(スイス人では、生粋の人の方が少ないです)もいますし、現在スイスで暮らしている人も、そうでない人もいます。

ということは、西ヨーロッパ人全体において、そういう傾向があるという事なのかも知れません。
ひょっとしたら、私が外国人(いわゆる弱者ですね)であるが為に、そういう人が周りに集まり安い、という事もあるのかも知れません。

また、私の話は、彼らが何度かに渡って、ぽつりぽつりと語った断片を、私の理解範囲内で繋ぎ合せたものですから、ひょっとすると、間違いもあるかと思います。

そんなことを斟酌した上で、読んでみて下さい。

               〜次回に続く〜


(文字数制限の関係で、今日は「前書き」だけになってしまいました、すいません。)

2007年1月9日 (火)  小説より奇なり 1

             〜前回からの続き〜

【E嬢の場合】

E嬢はイタリア系移民の2世で、国籍こそイタリア人ですが、スイスで生まれ、育っています。
年は30代後半、息子と恋人(父親ではない)との3人暮らしです。
小柄ですがスポーティーな体格で、なかなかの美人。性格は明るくて素朴、とでもいった感じでしょうか。

唯一の難は、頭が良いとはお世辞にも言えない、というところですが、まあ、可愛らしい笑顔で世の中を渡るのも有りですから、人それぞれ、自分の長所を活用したら良いわけです。

こんな風に書くと、E嬢は、誰からも好かれる、感じの良い女性と思えますよね?
私のE嬢に対する印象も実際そうでしたが、それなのに何故か、彼女といるとしっくりしないのです。
そして、そんな私の違和感を裏付けでもする様に、E嬢は、恋人や村の人々との問題を、常に抱えていました。

ここまでが、過去10年間以上、私の知っていたE嬢です。
そんなE嬢が、最近私に話してくれたのは、子供の頃の暮しについてです。

西ヨーロッパ諸国では良くある事ですが、スイスでも国内経済が豊かな時期に、たくさんの外国人労働者がイタリアからやって来ました。
E嬢の両親もそんな人達でした。

確かに偏見かも知れませんが、物事を捉える時、一つの目安になると思いますから、敢えて書きますが、こういう時代の流れがある場合でも、自国内で既に裕福な生活が出来ている階層の人達は、出稼ぎ労働には行きませんよね。

さて、E嬢の両親がスイスで得た仕事はというと、父が工場の単純作業、母は掃除婦です。

以前にも書きましたが、スイスでは、職業学校のシステムが浸透していますので、そこで何か専門を身に着けていない場合――外国人は大抵そうですが――得る事の出来る仕事は、やはりこういった底辺層のもののみです。

より良い暮しを夢見て、スイスに来たE嬢の父にとって、この仕事は、退屈であっただけでなく、プライドを傷つけた様です。
そして彼は、その地位を変える為に学校へ行く代りに、酒をたくさん飲んで、家庭内で憂さを晴らしました。
はい、いわゆる酒乱ですね。

E嬢の父は、酔っぱらうと大声で、自分がどれだけ偉いかを語り、何か気に入らない事があると、子供達三人(姉、E嬢、弟)を一部屋に閉じ込めて、鍵を掛けたそうです。
そしてそれは、数日間に渡り、度々繰り返されたそうです。

そんな時、E嬢の母がした事は、夫の目を盗んで、閉じ込められている子供達に食べ物を与える事、だけだったそうです。
閉じ込められているその数日間、子供達はトイレをどうしたのか、という様な記憶は、現在のE嬢にはないそうです。

別の時は、酔った父が子供達を一列に並べて、「お前達の様な出来損ないは、俺が殺してやる」と、長い銃を突き付けたそうです。

そんな風に育ったE嬢は、18歳になると、同郷出身の同性愛者の男性と偽りの結婚をし、父の元から逃げ出しました。
(南イタリア出身でカソリックの教えが強い、E嬢の両親にとっては、娘がただ一人暮らしをする、というのは認められません。)
E嬢の弟は、一時期薬物中毒になり、刑務所に入っていたそうです。

父親の機嫌一つで、命が左右されるような家庭で育ったE嬢には、大人になった今でも、自分で事を解決するという力がありません。
余計な事をしようものなら、銃で脅されるのですから。
E嬢の生き方は、基本的に「いつか誰かが現われて、私をより良い世界に連れて行ってくれる」です。

「自分の望みは全て、誰か他の人が叶えてくれる」という態度のE嬢を、普通の大人達は、ましてや彼女の事情を知らなければ、まともには相手にしませんよね。
最初の内は、純粋で可愛らしいと思っていても、時間が経つにつれ、他力本願で何も努力をしないE嬢に、皆は苛立つのです。

それでもE嬢は言います。
「父は、決して悪い人ではないのよ。酔ってさえいなければ、優しい人なの」

そして、そろそろ年を取って来た父親は、E嬢達と暮らす事を夢見ているようです。

               〜次回へ続く〜

2007年1月10日 (水)  小説より奇なり 2

               〜前回からの続き〜

【J嬢の場合】

J嬢は30代後半のドイツ人で、医者であるスイス人の夫と、スイスで暮らしています。
落ち着いた雰囲気を持つJ嬢は、知り合った当時から、実際の年齢よりずっと大人に見え、その物腰からも、信頼の出来る分別ある女性という印象を受けます。

ところが私は、いつも「彼女は何処に行くべきか、決めかねている」という気がしていたのです。
J嬢の中には、2つの相反する場所があり、その2つはそれぞれに点で存在し、決して線では繋がっていない、という感じです。

分りますでしょうか?
落ち着いた分別のある淑女と、世間の目など気にしない、飛んでいる女の2地点を、あっちに飛んだりこっちに飛んだりしている感じです。
そして常に、現在立っていない方の場所が気になる、という風です。

それでもJ嬢は、私の知る限り、何か問題を起こしたことはありませんし、皆と上手くやっている様ですから、私には関係のない話ですが、溌剌として喜びに輝いている彼女を見た事がないのが、私は気になっていたのです。

そんなJ嬢が、10年以上経って話してくれたのは、家族の生い立ちでした。

J嬢の曾祖母は、現在はポーランドになっている地域で産まれ、そこで裕福な暮しをしていました。
当時そこはドイツだったのですが、戦争の関係でポーランドになり、曾祖母とその家族は、ドイツのある小さな村の、何もない丘に土地を与えられました。

ずっと裕福な暮しをしていた家族にとっては、全てを失ったも同然ですが、家族全員で力を合わせて働き、その間に娘の一人(J嬢の祖母です)が村の豪農と結婚した事もあって、現在そこでは、J嬢の母(父は数年前に他界)がホテルを経営しています。

家族が何代にも渡って築き上げたそのホテルを、二人娘(姉、J嬢)のどちらかが継ぐ事を、母親は望んでいる様ですが、J嬢自身には、それが果たして自分の希望であるのか、分っていない様です。
かといって、絶対に嫌だというわけでも、ない様です。

そして、年頃になったJ嬢は、母親の希望とは違う進路を取りました。
ホテル業とは、無縁の世界です。
しかしそれは、単にやりたい事というだけでは、許されなかった為、そこそこ親をも納得させられて、そこそこ自分も好きな事、というものになった様です。

その後、J嬢はスイス人との結婚を選び、現在の彼女は、夫の仕事の都合がありますから、ドイツで暮らす事は出来ません。

皮肉な物の見方をすれば、ドイツに帰ってホテルを継ぐ事が出来なくなったとしても、娘が医者と結婚するのを反対する親は、まあ、いませんよね。
J嬢は、2つの道の選択をしないで済む、という選択をしたのかも知れませんね。

それでもJ嬢は、「いつか、ひょっとしたら」と考えているようで、現在の彼女自身の仕事(5年も掛けてスイスで学んだもの)とは全く関係のない、ホテル業について夢見たりもする様です。

                 〜次回に続く〜

2007年1月11日 (木)  小説より奇なり 3

              〜前回からの続き〜

【B嬢の場合】

B嬢は40代前半のスイス人で、息子と恋人(父親ではない)と暮らしています。
B嬢には、二度の離婚歴があり(息子は、最初の結婚相手との子)、結婚していない期間には、私の知る限りでも、決して少なくない男性達との関係があります。

ただ、彼女の話を聞く限りでは、どの男性も素晴らしい男性で、今でも良い友達として付き合いがあるそうですし、一緒に暮らしたのは、二人の元夫以外には、今回の恋人だけですから、まあ、やっとぴったり来る男性に出会った、という事でしょうか?

私のB嬢に対する印象は、ちょっと面倒な所はあるけれど、スイス人としては珍しく、思っている事をはっきり言うし、言い合いになっても五分後には一緒に笑える、友達と呼べる人、という感じでした。
また、B嬢自身認めている様に、彼女は男性を見る目がないのですが、それでも、そういう男性にきちんと恋をするのは、私としても評価していました。
……例えばろくでなしの男でも、惚れてしまったものは仕方がないですからね。

ところが最近、幾分おかしな事が起こったのです。

B嬢自身「私のパートナー」と呼んで、認めている筈の恋人がいるにも関わらず、別の男性に恋をしたらしいのです。
その男性とは、私を通して知り合いましたから、B嬢は彼との事を私に相談して来ました。
しかしその口振りが、まるで「パートナーなんてどうでも良い」という風なのです。

「決まった人がいたって、他の人に心を奪われてしまう事がある」という現実自体は、私は、特に問題だと思いません。
ただ、気になるのは、「何故、パートナーとの同棲を解消しないのか?」です。
新しい男性と上手く行きたいのなら、古い男性とは終わりにすべきですし、古い方と終わりにしたくないのなら、新しい方には、手を出すべきではないと思うのですが。

そんなB嬢が、10年以上経って打ち明けたのは、父親達の事でした。

実父は、彼女の母親と別れたきり、子供達(B嬢、双子の妹)にも一切連絡をしませんでした。
そして母親は、子供の頃B嬢が、何か彼女を苛立たせる事をすると、いつも「お前は、父親にそっくりだよ」となじったそうです。
大人になったB嬢は、実父を自分で探し出し、会いに行きました。
その結果B嬢は、母が非難していた実夫が、「ごく普通の男性である」と分ったそうです。

継父は、父親として娘達の面倒を見、B嬢自身、自分が継父の実娘ではない事など、感じずに育ったそうです。

ところが継父には、子供には理解出来難い、教育方針がありました。
「人間は、褒められると付け上がり、努力を怠る様になる」
そう考えていた継父は、子供を一切褒めませんでした。
どんなに算数の点が良くても、「国語の点が悪いな」という具合です。

その結果、B嬢は自信のない大人になりました。
何をどんなに頑張っても、決して十分ではないのですから。
でも、何もかも完璧にこなすなんて、誰にも出来ませんよね。
その上、自信がないのですから、他人からの評価で自分の価値を計る事になります。
人間、十人いたら十通りの価値観がありますから、他人の好みで自分の価値が左右されるとなると、心の安らぎは訪れませんね。

そんなB嬢が、私に聞きます。
「xx(新しく出会った男性)は、本当に私を好きだと思う?」
「付き合いたいって言ったんだから、好きなんじゃないの」
「でも、何かこう、社交辞令とか、そういう事かも知れないし」
「社交辞令で女性に『貴方とお付き合いしたい』なんて言う男、いるわけないでしょう」

「そうよね?! 私、頑張っても良いわよね?」
「私が貴方なら、迷わずに進むわよ。ただその前に、自分の身辺を整理するけど」
「うーん、今すぐには、○○(パートナー)と別れられないわ」
「何故? もう気持とか、ないみたいじゃない」
「家賃がね、一人で払うには高いのよね」

「じゃ、正直に話して、次の部屋が見付かるまで、同居して欲しいって言えば?」
「それは無理よ! そんなこと言ったら、彼は荒れるわ。xxが『一緒に暮らそう』って言ってくれたら、今すぐにでもそうするんだけど」

……B嬢が私に話していない事は、まだまだ、たくさんありそうですね。

            〜次回に続く〜

2007年1月12日 (金)  小説より奇なり 4

            〜前回からの続き〜

【A嬢の場合】

A嬢は30代後半のドイツ人で、現在はドイツで暮らしています。
太ってこそいませんが、175cmの身長に釣り合う体格をしたA嬢は、大人の女性というよりも、活発な15歳ぐらいの少年といった雰囲気で、いつも声を立てて笑っている、というタイプです。

私の印象も、一緒に暮らしたら疲れるだろうけど、たまに会って騒ぐには、男性にも女性にも「楽しい相棒」という感じでした。

また、A嬢は割と早い内から「両親が離婚している事」「パニック障害になって、セラピーを受けていた事」「母親といまだに確執がある事」等を話してくれていましたから、彼女が時折、急に何かを恐れたり、きちんと躾を受けていない様な振る舞いをしても、私には、問題ではありませんでした。

そんなA嬢が、10年経ってから話してくれたのは、母親の事です。
A嬢の両親が離婚に至ったのは、母親のアルコール中毒が原因でした。

両親の離婚後、子供達(兄、A嬢)は母親の元で育てられたのですが、残念ながらそれは、A嬢にとって必ずしも幸福な選択では、ありませんでした。
A嬢の子供時代は、「如何に母親のアルコール中毒を、世間の目から隠すか」に尽きた様です。

学校の父兄面談に、泥酔状態で来る母親。家に帰ると、床に意識不明で倒れている母親。別れた父親を罵る母親(父親は、子供達に会う事が許されていませんでした)。散らかった家。缶詰の中身が並ぶ食卓……

子供だったA嬢は、そんな母親を恥じると共に、「今日学校から戻ったら、母は死んでいるかも知れない」とか「この次酔って倒れたら、打ち所が悪くて死んでしまうかも」という恐怖を、常に抱えていたそうです。

その後、母親はセラピーを受け、今ではアルコールを飲んでいない様ですが、A嬢は、「その代りに、何かおかしな薬を飲んでいる」と言います。

というのも、母親は、殆ど家から出ず、時折おかしな電話を寄越し、A嬢が入院した時は、30分置きに病院に電話を入れ、かといってA嬢が「具合が悪くて起きられないから、手伝いに来てくれないか」と聞けば、「それはちょっと出来ない」と言い、A嬢が訪ねて来ない事をなじり……

A嬢は、大人になってから、パニック障害に陥りました。
そして、「部屋の中では呼吸が出来ない」と感じた彼女は、下着姿で通りに飛び出し、公衆電話から父親に助けを求めました。

「母との付き合いを絶たないと、私の方がおかしくなる。そうは分っていても、母を一人にして置く事に、酷く罪悪感を覚えるの」
そう言うA嬢に、私が言えたのは、ありきたりな事だけです。

「誰でも皆、自分の人生は、自分で面倒を見なくてはいけない。貴方に二人分の人生の世話は、出来ないわ。お母さんの人生を何とかして上げられないからといって、それは、貴方の責任ではないわ。お母さんはもう、大人なんだから」
それでもA嬢は、ほっとした様に言いました。
「そうよね。母が不幸だからって、私が幸せになっていけない理由は、ないわよね」

A嬢は最近、恋人と同棲を始めました。
長い間一人でいた彼女には、毎日が楽しいそうです。
「彼、家の事もやってくれるのよ。私が何も言わなくても、自分から買い物にも行くし」

スイスの男性はもちろんですが、私の知る限り、男女平等の国ドイツでも、男性がそんな事をするのは当たり前です。
しかし、喜んでいるA嬢に、わざわざ水を差す事はありません。
「良かったじゃない、いい人が見付かって」
「うん、すごく幸せよ」

……この先A嬢がどうなるのか、私には分りませんが、そろそろ落ち着いても、罰は当たりませんよね。

2007年1月16日 (火)  赤い疑惑

恋人と付き合い始めたばかりの頃というのは、端から見れば小っ恥ずかしい様な事を、誰でもするものですが、今日はそんな話を一つ。

私がインドネシアからスイスに来た時、持っていた化粧品は、必要最低限程度でした。
ファンデーション、口紅、アイ・シャドウがそれ一つずつ、というところでしょうか。
ところがマニキュアだけは、色とりどりに5本位ありました。
はい、そうなのです。化粧があまり好きでない私、どういうわけか、マニキュアは好きなのです。

そして、私が手や足の爪に色を塗っていると、夫B氏は興味津々という感じで、その様子を眺めていました。
そんな時ぐらいしか、私が女性らしい仕草をしないせいもあるのかも知れませんが、化粧に興味を持つ男性は、特にそちらの方でなくても、案外いるのではないでしょうか。
子供などは、男の子でも化粧をしたがりますよね。

ある時私は、そんなB氏に聞きました。
「B氏にもマニキュア、塗って上げようか?」
返事に躊躇してはいるものの、その様子は「して欲しい」と言いかねている、という感じです。
私はその日、B氏の両足に、真っ赤なマニキュアを塗りました。

さて、次の日、義兄の結婚式(披露宴)での事です。

色々な出し物も終わり、出席者が何人か指名されて、椅子取りゲームをすることになりました。
B氏は「本日の主役」の弟ですから、もちろん直で指名が掛ります。

ちなみにその椅子取りゲームは、普通に椅子を取り合うのではなく、こんな具合です。
音楽に合わせて皆が椅子の周りを回り、音楽が終わると、ある物が指定されます。
ゲームの参加者は、その物を急いで会場から探し出し、それを手に、椅子を取りに向かうのです。

順調に回が進み、B氏は何と、最後の二人というところまで勝ち進みました。
一つの椅子をめぐっての対戦相手は、叔父K氏です。
年齢的にも、体格的にも、B氏の優勝は間違いなし、という雰囲気が会場に流れていました。
優勝者には景品が出ますから、B氏もやる気満々です。

音楽が流れると、二人は受けを狙い、椅子を真ん中にして互いを牽制します。
皆が笑い、和やかな空気が一分ぐらい続いたでしょうか。
そして、曲が止むと、探し出すべき品物が二人に告げられました。
優勝決定戦の品物としては、探し出すのに簡単過ぎますし、多分に精彩を欠く物です。

が……
B氏が一瞬固まるのが、私だけには分りました。
そう、それは今日のB氏には、まずいのです。
隣では、K氏がさっと床に屈みます。

目を泳がせたまま、一瞬棒立ちになったB氏は、慌てて、近くに座っている義兄に向かいます。
しかし義兄は、B氏にその「ブツ」を渡すまい、と抵抗します。
このままではまずいと思ったB氏、今度はK氏の元に戻り、既に手にしかけている、K氏のその「ブツ」を奪い始めます。
もちろん、K氏は、奪われまいとします。

二人での「ブツ」の奪い合いを、場を盛り上げる為のB氏の演技、と解釈した皆は、楽しそうに笑い声を上げます。
そして、B氏の思惑とは裏腹に、盛り上がった椅子取りゲームは、K氏の優勝で幕を閉じました。
親戚達は、負けたB氏の肩を叩き「良く盛り上げたな」と賛辞を送っています。

幾分顔を赤らめながら、戻って来たB氏に、私は言いました。
「すごいタイミングだよね。まして、優勝決定戦でとは、嘘みたいな話だね」
「俺、一瞬頭の中が真っ白になったよ」
「うん、私には分ったよ」
「K氏が、俺のを取りに来たらどうしようって、本気で焦ったんだ」
「ああ、それはそれで、受けたんじゃない?」

半分笑いながら茶化す私に、B氏は言います。
「それにしても、『くつした』は、洒落になんないぜ」

2007年1月17日 (水)  B氏の小ネタ集

我が夫B氏は、少しだけ日本語が出来ます。
しかしそれは、過去の日本滞在を通して、耳から学んだものですから、知っている言葉のレベルがまちまちです。

そんなB氏が、うろ覚えで使う日本語は、私達日本人にとって、時に微妙な笑いのツボを突く場合があります。
大笑いは出来ませんが、くすり、にやり、という笑いです。
今日は、そんな小ネタを幾つかご紹介します。

【サントリー】
『ブリヂストン(Bridgestone)』という会社名が、創業者『石橋』氏の名前を英語読みにして、ひっくり返した物であると知ったB氏は、それ以来この社名がいたく気に入った様です。

そしてある日のこと、何気なくしていた会話で、B氏が言いました。
「三鳥は、そのままだな」
「へ? 三鳥?」
「うん、三鳥社長は、石橋さんみたいに洒落ては、いないな」
「三鳥? さんとり? サントリ? あっ!!」

……B氏、『サントリー』は『鳥井さん』です。

【クリスマスvsお正月】
スイスでは、毎年クリスマス・イブからシルベスター(大晦日)にかけて、パーティーに継ぐパーティーで、忙しい日々が続きます。
しかし、大晦日から新年へのカウント・ダウンが済むと、皆大人しくベッドに入り、年明けは、ただ普通の静かな休日となります。

このあまりの差に、些か拍子抜け気味の私は、ある時言いました。
「スイスでは、年末は賑やかに祝うけど、年始は何もしないんだね。日本は逆だよ。日本では、暮れよりも新年を祝うんだよ」

するとB氏、もっともだという顔で頷きます。
「そうだな。日本では、新年が大事だよな」
「あぁ、B氏、知っているんだ。そうだよね、日本でお正月をやったもんね」
「うん、『新年会』は、大切だからな」

……B氏、それはちょっと違います。

【キッチン】
最近私の友人が、吉本ばなな嬢の『キッチン』を読み、こう言いました。
「キッチンは、みんつの世界に似ている気がする。何て言うか、みんつの使うドイツ語は、翻訳された吉本ばななの表現に似ている」
それを聞いたB氏、吉本ばななの作品に、興味を持ったようです。

「みんつ、キッチンは日本語で何て言うんだい?」
「台所だよ」
「だいどころ? どんな漢字?」
「この漢字は、B氏も知っているよ。二文字だけど、当ててごらん」
「だいどころ……『だい』と『どころ』だな。だい、どころ……だい、ところ……あっ、分った! 『だい』は大きいで、『どころ』は所だね。そうか! だいどころは、家の中でも大きい所だからな」

……ぅ〜ん、惜しい。

【隣の奥さん】
日本語ネタではありませんが、B氏は、私の実家の隣に住む女性(60歳ぐらい?)について、ある思い込みをしています。
何度か話しているにも関わらず、何故かB氏、確信を持っている様なのです。

「最近ね、お隣さんが、実家の猫に餌をやってくれているんだって。K子(実家に住む私の妹)がちゃんと猫の面倒を見ないから、みんなで世話してくれているみたいだよ」
「お隣さん?」
「うん、庭側の、白い家の方の奥さん」
「ああ、韓国の人だね」

……だからB氏、違いますって。その、多分、違うと思いますけど。

2007年1月18日 (木)  お屋敷の末裔

去年の夏、私達夫婦は、近村のある家を見学しました。

この家は築400年以上で、文化財か何かに指定されている建造物なのですが、現在でも子孫が住んでいる為、定期的に公開される時以外には、見学が出来ません。
(画像は、近日私のサイトにて、公開予定です。)

その家は、大きいだけでなく、壁や天井、造り付けの家具や扉にまで、たくさんの装飾が施され、普通に人が暮らしている家というよりは、博物館という風です。

その日の見学者は、20人近くいたでしょうか。
部屋毎に、ガイドである美術史の専門家が蘊蓄を垂れ、それを補うかの様に、家主が何年間にも渡って自分で調べ上げた、先祖達にまつわる知識を披露し、たった一言の質問は、壮大な物語へと膨らみ・・・・・・見学は、予定時間を超過する程でした。

私達夫婦は二人共、どちらかというと一人で静かに見て回りたいタチですから、さほど重要とは思われない質問にまで、たくさんの時間が費やされ、その度に待たなくてはいけない事に、幾らか疲れ気味ではありましたが、全体としては、行く価値のある建物であったと、満足しました。

さて、全ての見学も終わり、私達は、フランス様式の(と家主が言張る)中庭でアペリティフ(ワインと軽いスナック)を取る事になりました。

「庭に出る前に、トイレへ行きたい人はどうぞ。この廊下を行った、突き当たりにありますから」
きっともう何度も、こんな事をしているのでしょう、60代後半かと思われる家主(男性)が、慣れた様に言います。

こういう場合女性というのは、まあ、念の為にとでもいう感じで、トイレに行って置く人が多いのではないでしょうか。
私も、特に行きたかったわけではありませんが、「これから庭で、数時間の歓談があるかも知れない」と思い、廊下を突き当たりに向かいました。

トイレの前では、既に女性が3人、列を作っています。
急ぎでなかった私は、順番が来るまでの間、その辺をうろうろとして、見学予定には組み込まれていない、家主の私的住空間をそれとなく覗いたりしていました。

すると、ある壁が目に入りました。
そこには、私の上半身ぐらいある大きなコルク・ボードに、家族や知人と思われる人達の写真が貼られています。

家主の子供かと思われる、結婚衣装を身に着けた男女、孫達とのパーティー、何かのクラブでしょうか、似た様な格好の中年男性達が並んでいる写真、等々……たくさんの写真が、無造作にピンで留めてあります。

その中の1枚には、今日私達の見学ツアーに付き合ってくれた家主が、食卓の上一杯に広げられた、茸と写っています。
この地域の皆が狙っている、ヤマドリ茸の大きな物もたくさんあります。
どうやら、家主の趣味の一つは、茸取りの様です。
しかも、これだけの収穫ですから、かなり年季の入った趣味ではないでしょうか。

と、その写真の下に、孫のものかと思われる、幼い筆跡の手紙が添えてあります。

『お医者さんへ

茸を食べた後、私のお爺ちゃんは、お腹が痛くなりました。
それで、私のママが救急車を呼びました。
お爺ちゃんは夜、病院に泊まらなければなりませんでした。
先生、早くお爺ちゃんのお腹を治して下さい。

                         ○○より』

……あぁ、じい様、毒茸は駄目だよ。

2007年1月23日 (火)  お詫び

皆様へ。

今日も私のサイトに来ていただき、ありがとうございます。

大変申し訳ありませんが、現在個人的な問題で、日記を書く手が止まっています。

掲示板でも少し話をしていますが、知人の事で、頭を悩ませています。
正直に書くなら、知人に対してどう対応するのが正しい道なのか、決めかねているという具合です。

ですから、もう一日お休みを下さい。
明日には、何か楽しい日記を書けると思います。

ちなみに私自身は、至って元気ですし、悩んでいるわけでもありませんので、ご心配なく。

では、また明日。

                  みんつ

2007年1月24日 (水)  東洋の魔女

去年の8月から、私は週に1回(2時間)、村の小学校でバレー・ボールをしています。

このチームは、男女混合で年齢や経験はまちまち、参加人数も少ない為――元々、村の若者自体が少ない、という噂もありますが――はっきり言って、運動不足歴xx年(二けた)の私には、かなりハードな運動です。

それでも私、実は、中学校時代バレー部に所属していまして、何と、レギュラーでセッターのポジションを担当していたのです。
ええ、背が高くありませんからね、当時の私は、最初からセッターの座を狙って練習したのです。

そんな私は、日本にいた時から、「ママさんバレーのチームに入りたい」と思っていましたから、この村に来て「バレーのメンバーが足りないんだけど、やらない?」と聞かれた時には、その場で即決でした。

ただ、その時の私には、ちょっとした不安がありました。
というのも、身長160cmの私は、スイスでは、かなりなちびっ子ですし、幾ら中学時代にやっていたからといっても、私のいたチームは、決して強いチームではなかったからです。
「スイスでは、私のバレーは、通用しないのではないかしら?」

初日、恐る恐る体育館に踏み込んだ私は、まず、そのネットの高さに愕然としました。
試しにジャンプしてみると、ネットの上には、指先すら出ません。

ところが周りには、ただ立っているだけで、掌全体(もっと?)がネットの上に出る男性達がいます。
「あー、身長は何センチ?」
「192cm」
……げっ、我が夫B氏より、でかい。こいつらに本気でアタックを打たれたら、ちょっと無理かも。

準備運動が始まると、体育館半周で息を切らせている私を尻目に、皆は、悠々と走り続けます。
……おおっ、体力的にも、無理があるかも。

二人組になってパスの練習が始まると、
……あれっ? えっ? それはバレーなの?

はい、そこにいる殆どの人達が、自己流といいますか、滅茶苦茶な事をやっています。
どうやら少しでも経験があるのは、見たところ、私を入れて女性が3人だけの様です。

そして、2チームに分かれて試合が始まると
……ふふふ。へへ。いひひひひ。

その日、予定の2時間が終わり、女子更衣室では、
「みんつ、貴方がコーチになって、みんなに教えてよ」
「えっ、だって、私のやり方は日本式だから、スイスのとは違うかも知れないよ」
「良いのよ、私達は、インター・ナショナルで行くから」
「でも、最近のルールとか、分らないし」
「大丈夫、大丈夫」

……東洋の魔女、スイス・アルプスにて復活か?

2007年1月25日 (木)  お礼

皆様へ。

いつも、私の話に付き合って下さり、ありがとうございます。

「今、知人関係で少し頭を悩ませている」と書きましたところ、掲示板やメールで、皆さんからたくさんのコメントを頂きました。

どのコメントも、心に響き、深く考えさせられました。

何よりも、皆さんが、私を心配して下さっている事、力になろうと思って下さっている事、励ましにでもなればと気を配って下さっている事……そういう気持ちが、嬉しくて、ありがたくて。

この場を借りて、もう一度お礼を言わせて頂きます。

皆さん、本当にありがとうございます。
私の為に大切な時間を割き、勇気と思いやりでメッセージを書いて下さったこと、心から感謝しています。

今日の日記、最初は、何か面白可笑しく、別の軽い話題で更新をしようかとも思いましたが……
現在掲示板やメールでしている話を、茶化すような形になるのは、あまりにも勿体ないですし、私自身、もう少しこの話題について、皆さんとお話しをしたいので、今日の日記はやめにしました。

ということで、掲示板やメールでの会話、もう少し続けさせて下さいね。
また、どなたでも、気軽にお書き込み下さい。
私にとっては、どれもが貴重なご意見ですから。

                         みんつ

2007年1月30日 (火)  続・小説より奇なり 序章

過去の日記『小説より奇なり』で、私は知人達のトラウマについて書きましたが、正直に言うならば、まだこの時点の私は、それらをちょっとしたお話しで終わらせるつもりでいました。

しかしその後、この話題が掲示板で大きな展開を見せ、それと平行して、知人の一人と思いもよらぬ問題が生じ、現在の私は、この話を単なるネタで終わらせてしまうのはどうか、と思う様になりました。

というのも、私は過去10年間以上、彼らに対して度々感じていた疑問があるからです。

今までそれを書かずに来たのは、気軽に笑える話ではない事、私には理解し切れない問題である事、私が触れるべき事柄ではないかも知れないと思った事、スイス人の習慣として既に定着している為、私がどうにか出来るものではない事、等々……という理由からです。

『小説より奇なり』の彼女達には、他にも問題があります。
少なくとも、私にはそう思えます。

今回は、思い切って、そんな話をしてみようと思います。

最初にお断りして置きますが、私は誰かを批判する気は、全くありません。
善悪を判断する気も、全くありません。
また、これは私の周りの人達という事で、スイス人全体がそうである、と言うつもりもありません。
ひょっとすると、そういう人が周りに集まる、私に問題があるのかも知れません。

そして何よりも、私には子供がいませんから、これを読んだ人の中で、知人達の子育てに対する私の文章に、不快感を覚える方がいるかも知れません。
「言うだけなら簡単よね。自分で産んで、育ててみなさいよ」と思われるかも知れません。

そういう方には、まずここで謝罪します。
これは単に、私の物の見方であって、全くの的はずれかも知れませんし、実際に子供を産んで育てる苦労も知らずに、意見を言うこと自体が無礼であるとも思います。
どうか大目に見て下さい。

ただ私は、『小説より奇なり』を通して頂けた、人間に対する深い話をする機会に、もう一つ、私の中で消化し切れずにいる違和感を、題材として加えてみたいと思ったのです。

この日記を読んで下さる方の中には、人生の先輩がたくさんいます。
私より若いのに、ずっと賢い方がたくさんいます。
全く違った人生を歩んで来て、私には見えないものが、見えている方がたくさんいます。
私はそういう方々に、スイスで経験した私の体験をどう感じるか、聞いてみたいのです。

ちょっとした気晴らしにと、いつも私の日記を読みに来て下さっている方には、「へぇ、スイスにはそんな事もあるんだ」とか「何処でも人間なんて同じね」と、考えてみて頂きたいのです。

では、前振りが長くなりましたが、明日から、そんな話を幾つかしてみようと思います。

                  〜次回へ続く〜

2007年1月31日 (水)  続・小説より奇なり 1

                〜前回からの続き〜

【E嬢の場合】
(過去の日記、2007年1月9日『小説より奇なり 1』参照。)

E嬢の息子A太は、二番目の夫O氏との子供で、現在確か11歳です。
O氏は、当時E嬢が通っていたサルサ・ダンス教室で、講師をしていたのですが、キューバ人である彼は、あちこちに女性や子供を作るタイプの男性であった様で、E嬢が臨月を迎えた頃、離婚となりました。

ここで簡単に説明して置きますが、スイスでは母子家庭手当、失業手当、社会保険、その他のシステムがしっかりしていますので、E嬢が乳飲み子を抱えて路頭に迷う、という事はありません。
実際、この時のE嬢は、大きな街に住んでいた事もあり、下手に働きに出るよりは、こういった援助を受けて暮らす方が、良い暮しが出来た程です。

さて、そんなE嬢は、この期間に将来の為の勉強をしたり、A太との暮しの基盤を固める代りに、別の男性を見付けました。

多分、失業保険のプログラムの一環だと思うのですが、近所のフィットネス・クラブへパートに出たE嬢は、最初の客としてやって来たM氏と、同棲を始めました。
子育てと仕事の両立は大変ですし、そういう生活では、M氏と過ごす時間も減ってしまいますから、E嬢はパートをすぐに辞めます。

その後、二人はM氏の故郷である、現在住んでいる州に引っ越して来たのですが、E嬢にとって誤算であったのは、大まかに言うと次の様な事です。
・住んでいる村があまりに田舎である為、趣味のサルサ・ダンスやショッピング、街の喫茶店でコーヒーを飲む機会がない(M氏が連れて行ってくれない)事
・M氏が、E嬢とA太を経済的に100%は、養う気がない事(スイスは男女平等ですから、半々が基本です)
・M氏がどんどん怠惰になり、今では、出遭った頃よりも50kg位太った事

M氏にとっての誤算は、分ってはいたものの、何もかも頼り切りであるE嬢が、時々苛立たしく思える事です。

ここまででしたら、いい年をした大人達がしている事ですから、時々愚痴を言いに来る二人に、「好きにしたら良いんじゃないの」と言うだけですが、私には、ずっと気になっている事があるのです。
はい、A太の事です。

何故か私は、何処に行っても子供達に好かれますし、実際A太も、私が行くとうるさいぐらいにまとわり付いて来ますが、私が抵抗を感じるのは、A太が礼儀作法を全く知らない事です。

例えば、友人達を招いて、我が家でパーティーをしたとしましょう。
A太の他にも、子供は何人かいますから、私は大人用と子供用の二つの料理を作ります。
デザートは、大人も子供も喜ぶだろうと思う物にします。

A太はまず、料理を殆ど食べません。
そして、まだ皆(他の子供達も)が普通に食事をしているのに、「デザートは何?」と聞き、それが特に自分の好物ではない、もしくは食べた事のない物である場合、我が家の冷蔵庫や棚を勝手に物色し、見付けたチョコレート等を食べたがります。

他には、大人の会話に何度も割り込んで来て、いわゆるジョークを披露するのですが、11歳の子供が性的なブラック・ジョークを言う事が、普通の大人にとっては面白くない事や、同じ年頃の子供にとってはショックである事が、分っていません。

もちろんこれは、家庭内で覚えたのです。
はっきり言えば、A太は、M氏を手本としているのです。

M氏にとっては、こつこつと努力するというのは、退屈な才能のない人間がやる事で、クールな人間というのは、あくせくしたりせず、ジョークの一つも言って、皆を笑わせる事が出来る人物を指すのです。
ですからA太は、学校の先生や近所の大人達(級友の親です)との間で、問題を抱えています。

そして私には、M氏は元より、E嬢が息子の躾について、何故M氏に注意をしないのか、理解が出来ません。
努力の報われない家庭で生活しているA太が、学校の勉強をやる筈がないのは、私には不思議でも何でもありませんが。

「たとえそれが家族や親しい知人であっても、他所の家庭や教育方針には、口を出すべきではない」
……しかしこれが、スイスのやり方です。

                   〜次回に続く〜

2月の日記へ