2005年10月3日 (月)  第一印象

私が夫B氏と知り合った時、彼はちょうど学校に上がる直前でした。
これは、B氏がそんなに若かったのではなく、仕事を続けて行く上で、きちんと専門的な勉強をし、それを証明する紙があった方が有利だということで、仕事を辞め、学校に入り直したところだったのです。

その学校は、毎年数人しか生徒を取りませんので、B氏のクラスは、ドイツ人女性3人、スイス人男性2人(一人はB氏です)という構成でした。
この5人はもちろん全員初対面ですし、私はこの学校とは何の関係もありませんから、もちろん誰のことも知りませんでした。
ところが、学校が始まると間もなく、B氏のクラス全員が私のことを知っているという、不思議な状態が出来上がったのです。

B氏が学校で最初に受けた授業の一つは、写真についてでした。
題材は何でも良いから写真を撮り、学校で現像し、それを使って何かしていたようなのですが……。

クラスの誰かが現像室に入ると、そこにはいつも、特徴のある2種類の写真がぶら下がっていたそうです。
一種類は、延々と山の景色を写してある写真で、もう一種類は、様々な場所でおかしなポーズをしている、小柄なアジア人女性の写真でした。
はい、木によじ登ってポーズを取ったりしている、このアジア人女性が私だったのです。

ドイツ人女性3人が現像室に入ると必ず、数枚は山、数枚は私の写真という感じで、スイス人男性の取った写真が目に入ります。
その後知り合いになってから、彼女たちが私に言ったのですが、最初のうちは、「スイスの男は、どうかしているのか?」と思ったそうです。
ちなみに私は、B氏が私の写真を授業の課題として使っているなどとは、全く知りませんでしたし(ですから、思い切り変なことをしていました)、そんな写真が学校で許されるとは、考えたことすらありませんでした。

さて、そんな風に出会う前から知られていた私ですが、ある日、B氏のクラスの女性からホーム・パーティーに呼ばれました。
正確に言うならB氏が呼ばれたのですが、もちろん彼女も私のことを知っているわけで、「恋人も連れてどうぞ」と言ってくれたようです。
このホーム・パーティー、実は私にとって、スイスに来て最初に招待されたものだったのですが、勝手の分らない私にしてみれば、ただB氏にくっついて知らない人の家に行った、という感じでした。

スイスでホーム・パーティーに呼ばれた場合、相手との関係にも寄りますが、大抵赤ワインか花束を持って行きます。
この時の私達も、まだよく知らないクラス・メートの招待ですから、一応ちょっと良いワインなどを買い、指定された時刻少し過ぎに(スイスでは、パーティーの場合は、少し送れていく方が一般的なのです)、彼女のアパートのドアを叩きました。

私達が余所行きの笑顔で立っていると、ドアを開けたのは、不審そうな顔をした、見るからにスイス人ではない、東ヨーロッパ系の男性でした。
「あの、ここはxxさんのお宅ですか?」
恐る恐る聞くB氏に、彼はぶっきらぼうな感じで言いました。
「ああ、ちょっと待って下さい」
ドアの外で待っていると、「xx、君にお客さんだよ」「えぇ、誰だろう?」というような、中で二人の話す声がします。

「B氏、本当にこの家なの?」
「多分、そうだと思うけど……」
「住所とか、聞かなかったの?」
「大体のところは聞いたさ」
「初めての家で、大体のところしか聞かないなんて、もしここじゃなかったら、どうするの?」
私達がそんな話をしていると、中からB氏のクラス・メートのドイツ人女性が顔を出しました。
「招待してくれてありがとう。これ、プレゼント」
ほっとした様子で赤ワインを差し出すB氏に、彼女は言いました。
「ホーム・パーティー、昨日だったのだけど」

……彼女が翌日、学校でこの話をしたことは、言うまでもありません。
その後次々と知り合いになった人たちは、皆私に、ものすごく気さくに話しかけてくれましたから。

2005年10月4日 (火)  役に立っているのか?

自慢ではありませんが、私、意外と反射神経が良いのです。

よくアクション映画などを見ていると、一般市民を装った登場人物が、食卓から落ちるコーヒー・カップを空中で受け止めてしまい、ただ者ではないことを見抜かれてしまうというようなシーンがありますが、あんなことは私の場合、ごくごく日常的な出来事の範囲に入ります。

コーヒー・カップだけでなく、フォークやナイフ、デザート用の小さなスプーンに至るまで、私は日々空中で受け止めています。
反射神経云々を言う前に、そういうものが頻繁に食卓から落ちないよう、食事マナーをどうにかした方が良いのではないか、という声も聞こえて来そうですが、こちらはやはり訓練が要るようで、なかなか簡単には行きません。

学生の時などは、授業中後ろを向いてお喋りばかりしている私を懲らしめようと、黒板を指すのに使う細い棒で、頭をポチリとやろうとした先生の攻撃を、見事に上段受けでかわし、教室中から「おぉ〜っ」という溜息を漏らさせたこともあります。
この時も、目の隅に何か黒い影が映ったかな、と意識するよりも速く私の体が動き、当時習っていた少林寺拳法の型が決まってしまったのです。

反射神経と言うぐらいですから、やろうと思ってやっているわけではなく、体が勝手に動くのですが、これが案外厄介なのです。
というのも、私は、軽い椎間板ヘルニア気味だからです。

どういうことかと言いますと……

今日の昼、私は洗浄機の中の食器を棚にしまっていました。
我が家の台所はコの字になっていて、調理台を前にして真ん中に立つと、左側に流し、右側に食器棚が付いています。
洗浄機は流しの下にあり、他の物もそうなのかどうかは知りませんが、扉は上から下に開くようになっています。
つまり、中身を食器棚に入れている間は、その大きな扉は、床と平行するように開きっ放しになっている、というわけです。

調理台の下には、布巾を掛けて置く横棒を、引っ張り出せるように出来ている棚があるのですが、私は普段、布巾の湿気が籠もると嫌なので、調理をしていない時は、その扉を開けたままにしておくことが多いのです。
今日は、少し残った水滴を拭うために、布巾も使いますので、横棒もいくらか引っ張り出されていました。

さて、食器の整理をしている間に、何の拍子か、私はその2つのドアの奧に立ってしまったようなのです。
流しを背に、右からは洗浄機の扉、左からは布巾を掛ける横棒が、私と食器棚との間に立ち塞がった形です。
そして、私がそのことを意識しないまま、手にした食器を棚に入れようと体を動かした時、それは起りました。

腰が、布巾の掛かっている棒に軽く触れたのです。
はい、反射神経の出番ですね。
全くの無意識で、私の体は、腰が棒にぶつからないようにと、上半身を捻りました。
腰の悪い方は既にお分かりでしょうが、この、上半身の重心が、体の中心からずれるようなポーズは、駄目なのです。
当然腰は、ぎくりという痛みで、私の動きが不満であることを告げました。

そして次の瞬間、またもや反射神経が出しゃばります。
腰の痛みを回避しようと、咄嗟にやつは私の右足を前に出させました。
この間、1秒となかったのではないでしょうか?
ガツッ!!!
完璧な攻撃ともいえる状態で、私のすねが、食器洗浄機の扉を横から蹴りました。

「うっっ」
午後の静かな台所で、両方の手に皿と布巾を持ち、2枚の扉に挟まれたせまい空間で、かがみ込むことも出来ず、手ですねを押えることも出来ず、痛い右足を上げ、まるでジャッキー・チェンの鶴の拳の様に、片足で立ちつくす私。

……スポーツ・クラブに所属しているわけでもない、単なる専業主婦である私の体に青あざが絶えないのは、ひとえに、この反射神経のせいなのです。

2005年10月5日 (水)  ドイツ語講座 (和製独語編)

皆さんもご承知のように、日本語にはたくさんの外来語があります。
その多くは、多分英語から入って来ているのでしょうが、中には普段何気なく使っている外来語で、実はドイツ語であるもの、というのも案外あるのです。
そして、その意味が、本来とは少しばかり変化されて使われているものも、少なくありません。
今日は、そんなドイツ語からの外来語で、皆さんがよく耳にするものを取り上げてみようと思います。

【アルバイト:Arbeit】
日本語では、学生や未婚の若者が、小遣い稼ぎにする仕事、もしくは時給で支払われる仕事のことを指すと思いますが、ドイツ語ではこれ、単に『仕事』という意味なのです。
月給でも時給でも、さらには無給であっても、全てアルバイトなのです。

簡単に言うなら、お父さんのアルバイトは、会社で働くことや日曜日に家の棚を修理すること。お母さんのアルバイトは、近所のスーパーのレジでも良いし、家の掃除でも良し。子供のアルバイトは、もちろん勉強をすること、というわけです。
私の今日のアルバイトは……やっぱり庭掘りでしょうかね。

【カルテ:Karte】
日本ではこの単語、病院で物々しい響きと共に聞かされる、患者の病状などを書き込んだ紙のことですよね。
しかし、ドイツ語ではこれ、『カード』です。
観光地の絵葉書もトランプのカードも、映画館の入場券や居酒屋のメニューですら、カルテなのです。

お医者様が勿体付けてカルテなどと言うから、何だかすごい物に思えますが、ただの紙やプラスチックで出来た片のことだと分ると、もう恐くありませんね。

【クーヘン:Kuchen】
クーヘンだけですと、ぴんと来ない方もいると思いますが、「バウム」と頭に付けると分りますね。
そう、『ケーキ』のことです。
ちなみに「バウム」は、『木』の意味です。

ただしこの「クーヘン」、ちょっとばかりややこしいのですが、ドイツ語の場合「クーヘン」と言うと、パウンド・ケーキのようなシンプルな焼き菓子を指し、日本で言うところのケーキ、つまりクリームや果物の乗ったものは、「トルテ」と呼びます。

ですから「バウム・クーヘン」は「クーヘン」で良いのですが……。
実は私、まだこっちで「バウム・クーヘン」なる物を見たことがありません。夫B氏に聞いても「そんなものは知らない」との答えでした。
ひょっとしてあれは、日本人の発明なのでしょうかね?

【ザーメン:Samen】
すいません、下品な話題で……日本語なら、こう言わなければいけない種類の単語でしょうか。
精液という意味で、日本では通っているこの単語、ドイツ語ではただの『種』です。
もちろん、魚の白子や男性の精液という意味もあるのですが、一般的には植物の種という意味で使われます。
つまり私は、毎年野菜畑にザーメンを蒔いているわけです。

【リュックサック:Rucksack】
はい、これはドイツ語です。びっくりされた方、結構いるのではないでしょうか?
意味も日本で使っているのと全く同じです。
ほら、これでドイツ語も、ぐんと身近になったでしょう?

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ところで、最近スイスのスーパーでも、少しずつ日本食材が売られ出しているのですが、この間私は、乾燥椎茸を見付けました。
その名もずばり「椎茸ピルツ」です。
ピルツ(Pilz)とは、ドイツ語で「茸(きのこ)」の事ですから、「椎茸ピルツ」は「椎茸茸」というわけです。

まあ、どこも似たようなことをしている、ということでしょうかね。

2005年10月10日 (月)  駄目だ

皆様へ

今日の私、絶不調であります。
いえ、正確に言うなら、昨日の夕方から、やることなすこと全て裏目に出ております。

うーん、こういう日は出来るだけおとなしくし、余計なことなどせずに、のんびり過ごす方が良いのですが、持ち前の勝ち気さが邪魔をして、「せめて一つぐらい上手くやりたい」と朝から色々手を付けては、どんどん自滅して行っています。

夕べは、毒づきながらマッシュポテトを作り、夫B氏を怯えさせましたし、たった今も、次の汚れ物を洗おうとして、洗いたてのまだ濡れている洗濯物の上に、洗剤をぶちまけたところです。
先程は、お昼ご飯を作ろうと、火にかけていた鍋をすっかり忘れ、もう一度最初からやり直しになりましたし……。

今日のアルプスは、雲一つない晴天だというのに、私の周りだけどんよりとしております。
こういう時は、頭を空っぽにして、外で体を動かした方が良いようです。

ということで、散歩に行って来ます。
いつものような日記は書けませんでしたが、代わりに、山の写真でも撮って来ようと思います。

うぅーっ、きぃーっ!!       

                みんつ

2005年10月11日 (火)  不調の始まり

昨日の絶不調ですが、ことの起りは、ジャガ芋でした。

日曜日の午後いっぱい、手をつないで散歩をし、誰もいない草原に寝転がり、久しぶりにのんびりと、アルプスならではの週末を楽しんだ私達夫婦は、当然のことながら、お腹を空かせて家に戻りました。
簡単に出来、それでいてちょっと気の利いたもの。
そう思った私は、焼いたソーセージ(スイスのソーセージは、主菜になるほど大きいのです)、温野菜サラダ、マッシュ・ポテトという夕飯にすることにしました。

皆さんもご存じのように、サラダ用の野菜やジャガ芋は、もちろん私の畑から取って来たものです。
手際よく、短時間でさっと調理したかったので、どうせ潰してしまうことですし、私は地下倉庫から大き目のジャガ芋を選び、敢えて小さく切ってから、オーブンに付いている電子レンジで調理することにしました。
このジャガ芋、あまり水気のない品種でして、蒸したり茹でたりすると、外側は崩れてしまっているのに、まだ芯は火が通っていない、という状態になってしまうのです。

これが、けちのつき始めでした。

我が家のオーブンは、以前の間借り人が2〜3年前に社割りで購入した、当時最新式のもので、私では使いこなせないほどの機能やボタンが、たくさん付いているのですが、スイスの値段の張る製品にありがちなように、あれもこれも出来るけれど、どれもきちんとは出来ない、という代物なのです。

そして、30分も電子レンジにかけているのに、じゃが芋は一向に調理出来ません。
そう、切ったにもかかわらず、周りは崩れているのに、芯は固いのです。
「このジャガ芋もオーブンも、どういうこと!?」
この辺で、お腹の空いている私は、不機嫌になり始めました。

ジャガ芋をチンしている間に、温野菜を作り、その後オーブンのグリル機能でソーセージを焼くはずだった私の予定は、変更するしかなさそうです。
しかし、今から蒸したのでは、既に切ってあるじゃが芋は、きっとぐずぐずで水っぽくなってしまいますし、茹でるのは、ジャガ芋が水に溶けてしまうでしょうから、問題外です。

「そうだ! マッシュ・ポテトは牛乳を入れるのだから、牛乳で煮ちゃえば良いじゃん!」
そう思った私は、鍋にジャガ芋を移し、牛乳を入れました。
ええ、良い具合にジャガ芋が溶けて行きました。ただし、外側だけが。
元々芯の方が調理し難いのに、電子レンジに長くかけすぎたせいか、ますます芯が固くなってしまったようです。
無理に潰そうとしても、残った芯がごりごりいいます。

「ああ、もう駄目だ。大失敗だぁ。こんなジャガ芋、大嫌いだ! 来年は、別のジャガ芋を植えてやる。お前らなんか、お払い箱だ」
「……」
「何だ、このオーブンは! 大体スイスの製品は、ろくなものがない。日本の電子レンジなら、3分もチンすれば、素敵な焼き芋だって出来るぞ。高いだけの役立たずが」
「……」
「もう、お腹空いたよぉ。誰か、飯食わしてくれぇ」
「……」
私が台所で騒いでいる間、夫B氏は自分の部屋にそっと引き籠もり、物音一つたてませんでした。

そして、出来上がった夕飯は……
芯を煮るために牛乳を追加し続けたせいで、柔らか過ぎる、粒入りマッシュ・ポテト(芯は、それでも残ったのです)。
鍋でジャガ芋と格闘している間に、すっかり忘れられ、ジューシーな肉汁などどこへやら、というソーセージ。
これは最初に作ったので、普通に出来上がった、温野菜サラダ。

「B氏、ごめんね。今日の夕飯は、失敗作だ」
「うん、分ってる。台所で毒づいているのが、聞こえていたから」
「それで、部屋から出てこなかったの?」
「ええと、みんつ、大丈夫? もう怒ってない?」

……この日の夕飯を「美味しい」と言って食べたB氏。あれは、怯えていたのでしょうかね?

2005年10月12日 (水)  B氏の秘密

何故かは分りませんが、我が夫B氏は、自分のことをあまり話しません。
ですから、一緒に暮らして10年になるというのに、私には、B氏に関していまだに新しい発見があったりします。

例えば、B氏は料理が得意で、友人を何人か招待してパーティーなどという時でも、特に誰かの手伝いも要らずに、手際よく、一人で大量の食事を作ったりします。
ああ、もちろん、台所は悲惨な状態になりますが、いつも美味しい料理が出来上がりますので、私は、B氏の調理中は、出来るだけ見ないようにしているのです。

私自身、誰に習ったわけでもありませんが、普通に料理が出来ますので、B氏もそうだとばかり思っていたのですが、つい最近、何気なくしていた会話で、こんなことが発覚しました。
「子供の頃、ボーイ・スカウトでよく、20人前位の食事を作っていたんだけどさ……」
「……」
それじゃ、友達数人呼んだって、大したことないわけです。

また別の時には、こんな事もありました。
私が庭から取ったさやえんどうを、さっとバター炒めにして、ビールのつまみに出したところ、B氏は言いました。
「こういう調理法なら、さやえんどうも美味しいんだな」
「……」
確か、私が春先にさやえんどうの種を植えた時には、「そんな野菜は知らない」というようなことを言っていたはずなのに。
そういえば、読書が大嫌いなB氏が、テレビのクイズ・ショーを見ていて、ヘルマン・ヘッセの小説に出てくる、主人公の名前を当てたこともありましたっけ。

さて、先日のことです。
その日は、さほど寒い夜ではありませんでしたので、お風呂から出た私は、濡れた髪を乾かさずに、タオルでくるんだまま、B氏と一緒にテレビを見ていました。

暫くして私は、何気なく、そのタオルをほどいて伸ばし、首の後ろから髪の下を回して、額のところで結びました。
こうすれば、濡れた髪がうなじに付いて、不快になることもありませんし、ある程度まとまっていますので、邪魔にもなりません。

すると、それを見たB氏が言いました。
「デイジーみたいだね」
……デイジー? 確か、『ミス・デイジー』なんていう、お婆さんと運転手の映画があったよな。あのお婆さんに、似ているってこと? あ、それとも花の名前か? タンポポって、英語でデイジーだっけ?
(ちなみに正解は、ヒナギクです。)

そんなことを思いながら、私は聞きました。
「デイジーって、何?」
すると、厳ついB氏の口からは、意外な答えが飛び出しました。
「ミッキー・マウスのガール・フレンドだよ」
「!!! B氏、何でそんなこと知っているの?」
「そりゃ、俺だって、子供の頃にミッキー・マウスぐらい読んださ」
「私は、読んでないけど……」

ミッキー・マウスを読んだことがあるというのと、そのガール・フレンドの名前を即座に言えるというのでは、いえ、私の鉢巻きともバンダナともつかないようなタオルの巻き方から、それを思い浮かべるというのでは、意味合いがかなり違うと思うのですが。

……子供の頃にテディー・ベアのぬいぐるみを集め、ミッキー・マウスを愛読していたらしきB氏、私の知らない秘密は、あといくつあるのでしょうかね?

2005年10月13日 (木)  初めての姉

皆さんもご存じのように、私は三姉妹の長女です。
そして、いとこなども同年齢の一人を除いては、皆年下なので、長いこと私は、家族の子供達の中で一番の年長者でした。
大人になってからも、妹たちの夫は、やはり義理の弟ですし(年齢も彼らの方が若いです)、一回目の結婚の時も、長男が相手でしたので、弟が一人出来ただけでした。

ところが、今の夫B氏は次男ですから、私には、生まれて初めて、いっきに兄と姉が出来たわけです。
小さい頃から一人っ子に憧れていた私としては、妹がいるだけでも邪魔でしたから、兄や姉など考えたこともなかったのですが、こうして実際に兄と姉が出来てみると、……正直な話、何とも面倒臭いものです。
実の妹たちはもちろん、義理でも弟が相手なら、多少無理を言って、図々しくしていても許されますが、兄や姉が相手では、そうは行きません。
しかも、我が義理の兄・姉は、一癖も二癖もある輩なのです。

義兄C氏(B氏の兄)は、多分に気分屋なところがあり、頭の切れるタイプなのでしょう、ちょっとした話などにも、素早い冗談で返したりするのですが、……そういう会話自体は、私は嫌いではありませんが……彼の冗談は、何となく棘があるというか、ものの見方が皮肉っぽいとでもいうか、会話は、ぶつ切れのような感じで終わってしまうことが多いのです。
それ以上の切り返しをして、険悪な方向に行くのも嫌ですし、遠慮なく言い返せるほどの関係は、残念ながらまだ、私達の間には築かれていません。

義姉J嬢(C氏の妻)はイギリス人で、ばりばりのキャリア・ウーマンというタイプです。
ポルシェのオープン・カーを乗り回し、自宅にいる時ですら、両手首には十本以上のブレスレットやら時計やらを下げ、各指には2本ずつぐらい指輪をはめ、ブランドものであろう皺一つない高価そうな服を着、革のパンプスを履いています。
また、子供を三人も産んだというのに、1gたりとも太ろうとしない、という徹底ぶりです。
それなのに、自分のウエストよりもずっと大きいベルトを買って来て、困っていたりするのです。

この2人から昨日、私達夫婦に招集が掛かりました。
「義父母の留守宅で、一週間の休暇を過ごすから、顔を出せ」ということです。
義兄夫妻の自宅は、私達とは違う州ですから、そうそう頻繁には行かれませんが、義父母宅なら、車で30分というところです。
「B氏よ、仕事の後にでも、みんつを連れて来られるだろう」というわけです。
ええ、行きましたよ。
こっちから行かなければ、向こうから押しかけて来そうな勢いでしたから。

C氏の作ったスパゲッティーとサラダで夕飯を取りながら、J嬢の次から次へとテーマの変わるお喋りに瞳孔を開きつつ、3人の甥っ子たちが一度にする、それぞれ違う話に相槌を打ち、私は、かなり上手にこの会合を乗り切ったようです。
その証拠に、彼らは明日の午後、B氏が仕事でいないというのに、我が家に遊びに来るそうです。

さて、この夕食の時に、J嬢がぽろっと言ったことがあります。
多分これが昨日、この何の共通点もない、私達義理の姉妹の距離を縮めるのに、一役買ったのだと思います。
『そうそう、私がうちの猫もここに連れて来たこと、義父母には言わなくて良いからね。知らないでいれば何ともないけど、聞いた途端に、あの2人は大騒ぎすると思うのよ』

義父は猫アレルギーですし、義母はいつ訪ねても家には塵一つない、というぐらいのきれい好きです。
「どこも汚れていない家を、義母は何故掃除するのか?」
いつも私はそう思っていましたが、その家が昨日は、小さな子が3人もいますから、散らかったままになっていましたし、猫の毛は、時期なのでしょうか、抜け放題でした。

「お義母さんの家が、あんなに散らかっていたの、初めてだね」
帰りの車で私がそう言うと、B氏もにやりと笑いました。
「ああ、今までで一番居心地が良かったな」
「この次からC氏夫妻とは、お義母さんたち抜きで付き合った方が、上手く行くんじゃない?」
「俺もそう思った!」

……私の駄目嫁人生、ひょっとして、春が来るのでしょうか?

2005年10月14日 (金)  ミッション…ポッシブルかも。

昨日書いた通り、来ました、義兄夫妻が。

今まで表だってもめてはいないものの、どちらかというと不仲に近いような関係でしたので、今日の訪問は、至って社交辞令的な、ひょっとすると暇つぶしのための、いや、ベビー・シッター目当てかも知れない、とすら私は思っていました。
午後の二時か三時頃に来て、二時間ぐらいお茶を飲んだり、散歩などをして帰るのだろうと。

ですから私は、寝起きのコーヒーもそこそこに、家中を磨き上げ、ゴミを出し、リサイクル用の古紙まで束ねていたのですが、何と、十二時の時点で、義兄から電話がありました。
「今からソーセージとパンを持って行くけど、どこかバーベキューの出来る所はある?」

敵は、かなりやる気のようです。
向こうがそう出るなら、私もびしっと言って置かなくてはいけません。
「ええと、うちの冷蔵庫、何にも入っていないんだけど……良いかな?」
「ああ、分った。みんつの分も持って行くよ。じゃ、後で」
ということで、近所の森で、義兄夫妻とその三人の子供とで、お昼を食べることになりました。

「歩いて二十分ぐらい」と私が言ったので、皆でリュック・サックを背負い、山の住人から見ると真っ平らな道を、ぶらぶらと隣村に向かったのですが……
まだ私の住む村を出ない内から、三男が脱落し(義兄が背負いました)、三分の一ぐらい行った時点で、次男がぶーたれ、半分ちょっとの所で、義姉までがこう言い出しました。
「日本人の二十分は、私達の感覚とは違うの?」
……ふん、軟弱者めが。私の足なら、本当は二十分も要らないんだぞ。

実は昨夜、私は夫B氏から、こんなことを言われていたのです。
「兄貴も義姉も痩せているし、案外みんつが、一番へばるんじゃないのかい?」
これで、私の面目も保たれました。

さて、危惧していたこの会合ですが、蓋を開けてみてびっくり、でした。
というのも、楽しい一時だったのです。
子供達が三人いっぺんに、それぞれ違うことを話しかけてくるのは、いつもと同じですが、今日の義兄はとても穏やかでしたし、義姉とは、話が弾んだと言っても良いような具合でした。

ふふふ、私のテーマ選びが、良かったのかも知れません。
どんなテーマか、ですか?
実は、私が普段から思っている義母の不可解な部分を、義姉が相手でも同じなのかどうか、思い切って聞いてみたのです。
ええ、ええ、子供も義兄もそっちのけで、夕方になるまで、二人で話し込みました。

「オー、マイ、ゴーッド。そんなこと、私には言わなかったわよ」……「もちろん悪い人ではないけれど、典型的なスイス人だから、頭が固いのよ」……「私は最初にガンと言ったから、それ以降は何も言ってこないわ」……「ああ、私がそんなこと言われたら、絶対言い返しているわよ」……などなど、義姉は、けらけら笑いながら話してくれました。

「義母がああなのは、私が原因なのかしら?」
そう言う私に、しまいには側で聞いていた義兄までが、言いました。
「いや、あれは、お袋自身が原因なんだよ」

……何だ、意外と話せるんじゃん、二人とも。

2005年10月17日 (月)  お知らせ

皆様へ。

ここのところアルプスは、晴天続きです。
しかし、やはり空気の冷たさが、冬であることを告げています。
……ああ、夫B氏は「今は秋だ」と言い張りますが。
私の勘では、雪が降るのも、そう遠くないのではないでしょうか。

ということで、

『今日は、庭、掘ってきます!』

               みんつ

2005年10月18日 (火)  やるってばよ。

庭掘り、やっと終わりました。
毎日こまめにやっていたわけでもありませんし、気の向いた日に、だらだらと掘っていたので、こんなに長く掛かってしまいましたが、後は土をふるってならすだけです。

私が今年の春に畑を始めた時、土地を提供してくれた近所のお婆ちゃんは、多分、私が本格的に野菜を作るなどとは、思っていなかったのでしょう。
地面をほぐしている私に、冗談まじりで言いました。
「何なら、隣との柵まで広げても良いんだよ」
「ホントに?」
「ああ、ここはあんたの好きにしな」

ところが秋になり、本当に柵間際まで畑を広げている私を見て、今度はいくらか焦ったようなのです。
「みんつ、そっちは石がごろごろしているから、使い難いんじゃない? 何ならここの花を抜いて、壁沿いを広げたらどうだい?」
これは、下に住んでいるお婆ちゃんにも言われました。
私は最初、彼女たちが本気で心配しているとは思わず、聞かれる度に呑気に答えていました。
「はい、大きな石が出て来ます。でも、ふるいに掛けるつもりですから、大丈夫です」

ところが昨日、庭を掘っている私の所に来たお婆ちゃんの口調は、以前とは少し違っていました。
「みんつ、そっちの土地はあんまり良くないよ。ここの花を抜いて、壁際を使ったらどうだい?」
何となく、切迫しているような感じなのですが、私は既に、柵近くまで芝の部分を掘り起こしてしまいました。
そのまま放って置くわけにも行きませんから、適当な返事をして作業を続けていると、お婆ちゃんはまた言いました。
「みんつ、そっちは、それ以上広げちゃ駄目だよ」

春の時点では「柵まで広げたらどうだい?」などと笑っていたのに、今度ははっきりと「xxしてはいけない」という言い方をしました。
これは、真剣な禁止、です。
「ええと、これ以上広げるつもりはありませんけど、この掘っちゃったところは、やっぱりちゃんとしないとまずいでしょう? これが済んだら、終わりにします」
「ああ、それなら良いけど。後、そこの真ん中にある切り株は、掘っちゃ駄目だからね」
「ええ、これはこのままにして置きますけど……」
私が掘っていた土地の真ん中には、切り倒されて何年も経っているであろう、茸の生えた木の切り株があるのですが、それは、直径50cmぐらいあるでしょうか。
根がどこまで伸びているか考えれば、いくら私でも、そんなものは掘り起こしません。

お婆ちゃんは、一体、何を恐れているのでしょう?
私がどんどん畑を広げて行って、柵が倒れるまで土を掘る、とでも思っているのでしょうか?
私、もう良い年をした大人なのですが、そんなにおかしな事をするような人物に見えるのでしょうか?

何となくすっきりしなかった私は、仕事から帰ってきた夫B氏に聞きました。
「あのさ、私って変人に見えるのかな? 畑を自力で広げているのって、おかしいのかな?」
「いや、おかしくなんかないさ。みんつは、ただ畑を広げているだけだ。まあ、普通のスイス女性は、そんなことはしないだろうけど」
「お婆ちゃん、本気で恐れていたみたいなんだけど……」
「みんつが本当にやるとは、思っていなかったんだろう。見積もりを誤ったのさ」
「でも、私、やるって言ったじゃん」
「スイス人は口ばっかりで、実際にはやらない人が多いからな」
「私は、やるって言ったら、やるよ」

……実はね、お婆ちゃんの気が変わらない内にと思って、もう、壁際の花も抜いちゃいました、へへ。

2005年10月20日 (木)  対等でいたいからこそ

今日は、少し面倒くさい事柄について、お話ししようかと思います。
初めに断っておきますが、これは、「私の考えが絶対に正しい」ということでもなければ、「そうでない人は駄目だ」ということでもありません。
「そんな意見もあるのね」と、皆さんにも、少し考えてみて欲しいだけです。

海外旅行をされたことのある方は、たくさんいると思いますが、皆さん、現地で買い物をする時に、値切りますか?
スイスのように、最初から値札が付いていて、観光客であろうが地元民であろうが、同じ価格で販売されている国の場合は別ですが、いわゆる貧しい国、物価の安い国に行った場合、値切ることが普通、というような感覚がある方は、多いのではないでしょうか?

でも、何故?
日本人は良いカモだと、馬鹿にされたくないから? 単に、騙されるのが不快だから? 何となく、そうしなければいけない気がするから? たくさん買いたいから?

理由は人それぞれだと思いますが、私が時々気になるのは、こういうような台詞です。
「たったの100円じゃないか」 「彼らは、月に1500円ぽっちの給料しか、もらえないんだ」……。
これ、旅慣れているはずの人や、現地で何年も生活しているような人でも、案外言うのです。

外国に行ったら、現地のお金が日本円でどのぐらいなのか、換算するのは誰も同じだと思います。ここまでは、大金持ちで「いくら使おうが、お金は有り余っている」という人でもない限り、誰もがすることですよね。
でも、その先をする人は、どのぐらいいるでしょうか?
「日本円にすると100円=何だ、安いじゃないか」と思う方は、たくさんいるのではないでしょうか?
これは、必ずしも間違いではありません……私達日本人にとっては。

お金の価値を換算する場合、私は、それが数字でどのぐらいなのかだけでなく、それで地元の人は何が買えるのか、を知る必要があると思うのです。
私達にとって100円は、チョコレートが一枚買えるぐらいの価値です。
でも、ある国では、それで例えば車が買えるとしたら?
そう、100円は、安くはありませんね。

「月に1500円の給料」……これも、日本で生活しているのなら、気の毒なほど少ないお金です。
日本で1500円といったら、レストランでちょっと良いランチでも食べたら、終わりですものね。
でも、そのちょっと良いランチが、例えばある国では、5円で食べられるとしたら?
1500円は、悪くない給料でしょう?

だから、私達のように先進国と呼ばれる国からの旅行客は、値切るのです。
私達が何の気なしに上げた10円で、彼らの生活が狂ってしまわないように。
そして、私達はその彼らに、毎日10円を上げ続けることは出来ないから。

観光客を一回でも騙せたら、半年ぐらい楽に生活が出来てしまうとしたら、誰が毎日仕事に出掛けて行くでしょう?
こうなったら彼らは、観光客の周りをうろつき、場合によっては暴力的な手段で、金品を奪ったりもします。
だって、もう真面目に働くのは馬鹿らしいですし、どんなにみすぼらしく見える人物でも、彼らの背負っているリュック・サックには、びっくりするぐらい素敵な物が入っているのですから。
しかも、どうせ彼らは、ここには2度と来ないのです。

言葉の通じない国で、しかも時間があまりない場合、この作業はひどくストレスになります。
相手の方も良く知っていますから、あの手この手で売りつけようとしますしね。
いつもいつもそんなことを考えて、きちんとするのは無理です。疲れてしまいますし、旅行自体が楽しくなくなってしまいます。
でも、たまにはそんなことも考えてみて欲しいのです。

先進国と呼ばれる国は、世界でもほんの一握りです。
その中でもトップを争うほどお金のある日本。
私達個人々々はそんな実感はありませんが、それでも、私達の使うお金が大きな意味を持つ国が多いのは、事実です。
ほんの少し、そろそろ先輩としての役割も、しても良い頃ではないでしょうか?

だって、現地の人とも心の触れ合い、したいでしょう?

2005年10月24日 (月)  劣等感 (前)

    (文字数制限の関係で、今日の日記は2つに分けました。)

実際に住んでいないと想像し難いかも知れませんが、スイス人の多くが、程度の差こそあれ、何らかの劣等感を持っています。
取り立てて理由があるわけではなく、何となく「自分は劣っている」という、漠然とした不安があるのです。

例えば、我が夫B氏は、どんなにきちんと出来ていることでも、私が「大丈夫、それで良いのよ」と言うまでは、安心出来ないでいるような感がありますし、自分の能力を試すような機会に巡り会った時、「チャンスだ!」ではなく、「失敗するかも知れない」という不安が先に立つ傾向にあります。
友人J氏なども、私から見ると、見栄えも頭も職業も文句なしにも関わらず、自分は女性に持てないと思いこみ、そのせいで、女性と親しくなることを恐れ、かえって恋人を失ったりしています。

これは一体、どういうことなのでしょう?

私が生活していて感じるのは、スイス人は、本当に大切なことから、どうでも良いようなことに至るまで、常に何らかの評価を他人に下している、ということです。
分かり難いでしょうから、少し例を上げてみましょうか。

私の畑のじゃが芋が、よく育ったとしましょう。
実際これ、私は何もしていませんよね。ただ種芋を植え、水を蒔いただけです。
特に努力はしていませんし、誰にでも出来ることです。
ところがスイス人は、こう言います。
「みんつのじゃが芋は、よく育っているわね。貴方は良くやったわ」

これ一つでは、さほどの効果はありません。
私にしても、「別になにもしていないですよ。運が良いだけです」と答え、忘れてしまうでしょう。
でも、これが毎日起ったら?
じゃが芋だけでなく、玉葱やほうれん草も、私の腕が良いからよく育つと言われ、その上こんな台詞まで付いたら?
「前に住んでいた女性は、こんなに豊作じゃなかったわよ」
それとも、こんな台詞はどうですか?
「あら、おかしいわね。他はみんな良いのに、葱は育ちが今ひとつね。何が悪かったのかしら?」
もしくは、こんなのは?
「貴方の猫は良い猫だわ。他の猫のように、うちの庭にフンをして行かないもの」

実際に起った事柄は、私や前に住んでいた女性の能力とは、無関係です。
野菜に関しては、単に天候が良かったとか、たまたま蒔いた種が古かったとか、そんなことでしょうし、猫に至っては、テリトリーの問題でしょう。
私の猫は、他所でフンをしているだけです。

                  〜後に続く〜

2005年10月24日 (月)  劣等感 (後)

              〜前からの続き〜

それでもこういう事が、毎日あらゆることに関して言われ続けます。
こちらが何気なくしたこと全てに、何らかのコメントがつくのです。
そしてそれは、多分、子供の頃から続いていることです。

分りますか?
自分の一挙手一投足に、良いか悪いかの評価が下されるのです。
しかも、一人からではありません。両親、兄弟、親戚、先生、友人、近所の人……たまたま通りすがりに挨拶をした人までが、それをするとしたら?
一種の洗脳ですよね、これ。
表面上は褒められていても、自分の努力や目的の大きさとは関係なく、それがなされ続けると、人は知らず知らずの内に、マイナスの評価を受けることを恐れるようになります。

「じゃが芋は良いのに、何故葱は駄目なのかしら?」
葱の育ちが悪いのは、私の腕が良くないからだと思うようになり、本当はじゃが芋にだって何もしていなかったことは、意識の隅に追いやられてしまいます。
終いには、「来年も葱が伸びなかったらどうしよう?」……「いっそ葱はもう止めて、じゃが芋だけ植えようかしら?」という風になります。
そして、来る年も来る年もじゃが芋だけを植え、レタスが出来るかも知れない喜びよりも、確実に失敗しないものを植えることが、最優先になります。

これは私の考えですが、人間とういのは、どうでもよい様なことに関してまで、常に評価をされていると、褒められるという本来なら嬉しいはずのことも、次は褒められなくなるかも知れない、という恐れに代り、自由な発想から生まれるかも知れない、未知のより良いものよりも、とりあえず今ある、それなりのものが大事なように思えて来るのではないでしょうか?

こうしてスイス人は、知らず知らずのうちに、自らの自由を縛るようになり、自分のしたいことよりも、他人が自分にすることを望んでいるものを、優先させるようになります。

達成感や自信というものは、自分で望み、努力をし、ある程度苦労をして得たもの、から生まれるのではないでしょうか?
偶然良い物を得たり、絶対に成功するのが分っている事をしても、自信はつきませんね。

逆に、「ちょっと難しいけど、頑張ってみよう」という場合は、例え結果的には失敗であっても、何かを学べますし、「ああ、今回は駄目だったけど、自分はここまで出来ることが分った」とか、「次は、もっと上手く出来そうだ」という様に、自信に繋がります。
そして、こういう事柄を褒められたなら、それは自己の成長に大きく役立つのではないでしょうか?

他人からの評価に気を取られ、自分の自由を奪い続けていると、他人の自由にまで干渉したくなります。
「貴方の好きにして良い」と口では言いながら、「あら、これはどうしてこうしないの?」「xxは、こうしないとね」「そう、それが正しいわ」……というように、他人のすることを放っておく、ということが出来なくなります。
そしてその他人が、自分と全く同じようにした場合だけ、自信のない人間は、安心することが出来ます。
「あの人もああするのだから、自分のしていたことは、それであっていたんだ」と。

……うるさいよ、スイス人!

2005年10月26日 (水)  得意分野 (前)

(文字数制限の関係上、今日の日記も二つに分けました。)

土曜日のことです。

「B氏、みんつがさぼっているぞ!」
夫B氏との薪割りの途中で、輪切りにした丸太に腰掛け、私が休憩していると、背後から男性の声が聞こえました。
振り向くと、トラクターの中から、酪農家R氏が笑っています。
「こんにちは」
私達が側に行くと、R氏はパイプを吹かせながら言いました。
「堆肥のことだけどな、どうする?」

秋になり、野菜の収穫が終わると、この辺の人たちは、酪農家に頼んで堆肥をもらい、畑に撒くのです。
「みんつ、今年は、堆肥は撒かないんだろう?」
B氏が言います。
「うん、撒かないけど。……あ、もしかして、下の畑の話?」
私が借りている畑は三ヶ所あるのですが、その一つの持ち主である、下の階に住むお婆ちゃんは、毎年R氏から堆肥をもらっていたのです。

「俺はどっちでも良いんだけどさ、もし欲しいなら、自分で取りに来てくれないかな? 今までは、お婆ちゃんの代りに俺がやっていたけど、みんつは薪割りもやっているぐらいだから、堆肥も自分で運べるだろう?」
「ああ、それはもちろん自分で出来ますけど、……どうも話がこんがらがっているみたい」

お婆ちゃんは、元酪農家ですから、堆肥は毎年撒かなくてはいけない、と信じています。
しかし私は、いくつか気になることがあり、出来れば今年は撒きたくないのです。

どういうことかといいますと……

今畑の土は、さらさらとしていて、私には良い状態になっているように見えますが、春に種を蒔いた時には、まだコロコロとしたフンの固まりだったのです。
せっかく堆肥が土になったのに、また上から堆肥を撒いたら、来年実際に土が必要な時にあるのは、またフンになってしまいます。
私の知る限り、趣味でやる野菜畑などに撒くのは、十分に寝かせて土になった堆肥(もしくは生ゴミ)が良いと思うのですが。

また、牛を放つ草原とは違い、私の畑の土は、酷使されていませんから、毎年堆肥を撒く必要が、本当にあるのかどうかも疑問です。

何よりも気になるのは、家畜の餌には、特にその手のことに気を配っている酪農家のものでもない限り、病気を防ぐための、抗生物質のような薬剤が含まれていると聞きます。
そのフンを使うということは、間接的に私の畑にも薬品を撒く、ということになります。

ですから、どうしても必要だというのでない限り、私としては、何も使いたくないのです。
自分の畑から取れた野菜から出る生ゴミで、堆肥の代りに出来たら、というのが理想なのです。

                〜後に続く〜

2005年10月26日 (水)  得意分野 (後)

              〜前からの続き〜

しかし、この畑は借り物であって、私の土地ではありません。
そしてスイス人は、貸しているものは、例えお金を取っていたとしても(私は払っていませんが)、自分の物だと考えます。
ここに問題が持ち上がります。

お婆ちゃんは、自分の畑に毎年堆肥を撒きたい。
そうでないと、土が駄目になると信じている。
私は、自分の食べる野菜に、可能な限り余計なものを入れたくない。
でも、そのせいで、お婆ちゃんに痩せた土地を返す事になるのは、本意でない。

私の考えとしては、お婆ちゃんが今まで通りR氏と話し、堆肥を撒くのであれば、そうさせようと思っていましたし、お婆ちゃんもそうすると言っていましたので、堆肥に関しては任せていました。
ところがR氏の話では、今まで自分がやっていたのは、お婆ちゃんが年寄りだからであって、これは単なる好意である。
私が私の畑に彼の堆肥を撒きたいなら、堆肥自体はあげるから、自分で取りに来い。

そして、R氏の口ぶりでは、お婆ちゃんは「みんつの畑に堆肥を撒くように」と言ったようなのです。
「うーん、困ったなぁ。私が決めて良いなら、堆肥は欲しくないんだけど。もう一度、お婆ちゃんと話をしてから返事をしたいので、少し待ってもらえますか?」

R氏が去った後、B氏が急に言いました。
「みんつ、気を付けろ! R氏は、お婆ちゃんが『みんつの畑に堆肥を撒けと言った』、とは言わなかったぞ。俺の予想では、お婆ちゃんはいつも通り頼んだだけだ。でも、R氏は、みんつが畑をしているのを知っているから、その仕事はもうやりたくないんだよ。分るか?」
「……」
「R氏がお婆ちゃんの畑に堆肥を撒くのは、お婆ちゃんの土地を借りているからだ。好意だなんて言っているけど、俺は信じないな。大体酪農家なんて、色んな作業車があるんだから、堆肥を運ぶなんて大したことじゃない。自分の分を運ぶついでに、ちょこっとお婆ちゃんの所に下ろせば良いだけだ。手間でもなんでもない。スイスの酪農家はな、計算高いんだよ」

「あっ! そうか!! お婆ちゃんの庭には、花壇がたくさんあるよね。もちろんお婆ちゃんは、そこにも堆肥を撒きたいんだけど、それは私とは関係ないよね。でも、私が自分の畑に堆肥を撒くなら、花壇の分も当然持って行くことになって、R氏は一つ仕事が減るよね。私が畑に堆肥を撒かなければ、もっと少ない仕事のために、R氏は堆肥を運ばなくちゃいけないね。トラクター1回分だろうが、猫車1杯分だろうが、車を一回動かさなくちゃいけない労力は同じで……。ふふふ、お婆ちゃんに相談するのは、止めにする。明日、R氏に堆肥は要らないって言ってくるわ」
「俺も、それが良いと思う。どうもR氏は、要注意な気がするんだよ。一回それをしたら、どんどん利用されそうな気がする」

……酪農家は計算高い。でも、みんつはもっと狡い。

2005年10月30日 (日)  美しき酪農家たち

日本でもそうでしょうが、毎年このぐらいの時期になると、来年のカレンダーが発売されます。
その中で今日は、「これはスイスだな」と思うものをご紹介します。

普段真面目な堅物で、洒落っ気などもないスイス人にしては、これは上出来なのではないかと思うのですが……

その名もずばり、『女性酪農家カレンダー』です。

ごく普通の酪農家の奥さん、娘さんなどがモデルで、かなりセクシーなカレンダーになっています。
18禁ではありませんが、ミス・スイスなどよりもずっと迫力がありますので、お気をつけ下さい。

では、興味のある方は、こちら(↓)からどうぞ。
『見る!』

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