2006年11月2日 (木)  oshirase

minasama he

wagaya no modem ga koware masita.

atarasii modem ga kuru made ni 1syuukan kakaru soudesu.
soremade ha zannen nagara hp no kousin ga dekimasen.
keijiban mo ohenji ga dekimasen koto oyurusi kudasai.

.....tuzuki mono no nikki nanoni suimasen ga.

deha toriisogi gorenraku made

minz

2006年11月8日 (水)  お知らせ

皆様へ

新しいモデムは、まだ届いていないのですが、何故か現在、私のPCはインター・ネットに繋がっています。

いえね、今朝起きた時に「スイス人相手じゃないけど、何事もなかったように振る舞ったら、案外ネットに繋がったりして」なんて冗談でやってみたら、本当に繋がったのです。

これが単なる偶然なのか、本当は我が家のモデムは大丈夫で、サーバーの方に問題があるのか(テレビの会社と同じですね)、スイスに暮らしていると、この辺が微妙な所ですが、今の内に更新を少ししておこうと思います。

ですから、また突然、日記の更新も掲示板の返信もなくなったら、「ああ、みんつのモデムは、いかれたんだな」と思って下さい。

今週中には、新しいモデムが届くはずなのですが・・・

                     みんつ

本日の更新は、こちらです(↓)。

2006年11月8日 (水)  初めての入院 12

            〜前回からの続き〜

義母が私に電話をかけ、「週末にもう一度電話をするから、手術日を教えるように」と言った2、3日後の事です。

「みんつを当てにしていては、埒が明かない」とでも思ったのでしょう、電気ドリルを借りに実家を訪れた夫B氏に(何故か義父は、電気ドリルを幾つも持っているのです)、義母が迫りました。
「B氏、良いわね、みんつの入院日をちゃんと教えるのよ。たとえ彼女が嫌がっても、私は、見舞いに行きますからね。みんつはもう、我が家の一員なんだから」

あまりにも結果が無益な為、戦いをとうの昔に諦めていたB氏は、いつもでしたら、何を言われようと適当に聞き流しているのですが、今回ばかりは、それではまずいと考えた様で、義母を真っ正面から見ると、きっぱりと言いました。
「本当にみんつを家族の一員だと思っているなら、彼女の望む通りにしてやれよ!」

普段とは違うB氏の強い語調に驚いた義母は、はっと口をつぐむと、それ以上その話題に触れることを、やめたそうです。
そして、何と、その週末に我が家の電話は、一切鳴りませんでした。

いえいえ、これで終わりだと安心するには、私の『対義母』経験は豊富過ぎます。
方法を換えこそすれ、義母はいつだって、思い通りに事を進めようとするのです。
私には、数日間多目に、作戦を練る時間が与えられただけです。

しかし、私には既に、練るべき作戦など残っていませんから、B氏にこう告げました。
「必要なら、この次の電話で勝負する」

予想通り、我が家の電話が、週明けに鳴りました。
「みんつ、私ね、お見舞いには行かないことにしたわ。その代り、電話を入れるわね」
「へ? 電話?」
予想外の展開に戸惑う私に、義母は続けます。
「病室には、個別に電話が付いているから、入院したら、貴方の電話番号を教えて欲しいの」

……だからさぁ、静かに退院まで過ごしたい、って言ってんじゃん。お見舞いも電話も、患者を煩わせる事に違いはないってのが、どうして分かんないかなぁ。あのね、私はね、入院している時ぐらい、貴方のややこしい「家族ごっこ」から、解放されたいのよ。

「ああぁ、電話も、要らないです」
「あら、大丈夫よ。貴方が出たら、すぐに切るから。無事かどうか、確認するだけだから」
……傷が痛くて寝ているかも知れないのに、電話で起こされて、すぐに切られるなんて、それこそ勘弁してよ。

「心配して下さるのは、有り難いんですけどね、正直に言うなら、私、本当に煩わされたくないんです。手術後に寝ている所を、電話で起こされても嫌だし。今回の手術は、簡単なものなんです。無事に済むのは、私自身全く疑っていませんから、お義母さんも気を回さないで下さい。何なら退院の日に、そちらに寄ってから帰りましょうか? たった3日間ぐらい、そんなに大騒ぎする事じゃないですよ」
「でもね、貴方、スイスには誰も知り合いがいないじゃない。もしも不安になったら、困るでしょう」

……おい、それはいくら何でも、失礼過ぎ。本気で怒るぞ。貴方に話していないだけで、私には、知り合いぐらい何人もいるよ。もうスイスに住んで10年以上になるんだから、不安な時に話し相手になってくれる友達や、色々励ましてくれる知人ぐらい、誰だっている方が当たり前でしょう。そういう人達の中で、一番私を分っていないのが、貴方なの。だから、弱っている時には、貴方の相手はしたくないの。

「じゃ、こうしましょう。私は電話もしないから、一応番号だけ教えて」
「あの、もしももしも、何かがあって、お義母さんの助けが必要になったら、……まあ、病院には医者も看護婦もいますから、そういう事はないでしょうけど……その時はこっちから電話を入れますから、それで良しにして下さい」

「本当に、私に電話を掛けてくれる?」
「ええ、他に誰もいませんからね」
「そうよ、貴方には、私ぐらいしかいないんだから、遠慮しないのよ」
「はい、ありがとうございます」
「何かあったら、私に電話するって、今約束してちょうだい」
……絶対、あんたには電話しない!
「はい、約束します」

それでも義母は、やはりB氏に念を押さずにはいられなかったようで、またもや、B氏に諭される事になりました。

               〜次回に続く〜

2006年11月10日 (金)  初めての入院 13

              〜前回からの続き〜

「りんごがたくさん取れたから、取りに来ないか?」
義父の電話で実家を訪れた夫B氏に、義母が言いました。

「みんつの病室の電話番号だけどね、分ったら、私にも教えて欲しいのよ」
「何で?」
「一応知って置きたいの」
「みんつは、電話もして欲しくないって言ったよな?」
「あら、電話はしないわよ」
「電話しないのに、番号を知っていても、仕方がないだろう」

「良いじゃない、番号ぐらい教えてくれても!」
「教えたら、掛けるに決まっているじゃないか」
「教えなさい!」
「ああ、後は俺に出来るのは、お袋がみんつを煩わさないように、祈る事だけか」
「じゃ、もう、良いわよ!」
そう言うと義母は、ふくれて部屋を出て行ったそうです。

実はこの電話番号ですが、本当に知りたければ、私の入院後に、病院の受付に電話で聞けば良いだけなのです。
誰だって、そんな事は少し考えれば分る筈ですから、義母には、「私達の口から、直接、電話番号を教えてもらう」という事が重要なのでしょう。
もちろん、私が前もって受付に「誰にも電話番号は教えないで欲しい」と言う事も出来るでしょうが、単なる内輪のもめ事でそこまでは、私にはするつもりもありませんでした。

こうして私は、いよいよ入院をする事になったのですが、スイスの病院システムでは、まだ即入院ではないのです。

各自の希望によって、それは省いても構わないのですが、基本的にスイスの病院には、入院前に面談時間(Sprechstunde)というものがあります。
これは、執刀医に直接会い、手術に関する疑問や不安を、質問する事が出来る時間です。

特に質問はありませんでしたが、急を要する訳でもない私は、良い経験ですので、全てのプログラムをこなしてみることにしました。
ですから、病院からの電話で、私は翌週に面談日、そのまた翌週に手術日と、2つの予約を入れました。

長いですよね?
『ゲー&ピー』が始まってから実際の手術日まで、私の場合、58日間掛りました。
このほぼ2ヶ月間、私は油っ気無しの野菜と果物のみという食事で、随分前に履けなくなったまま、それでも「ひょっとしたら、またいつの日か」と、洋服入れの下の方に押し込まれていたジーパンは、再び活躍することになりました。
いやぁ、ホント、十分な皮下脂肪というのは、寒い国では大切なのですね。

そして、病院から電話が来た確かその翌日、一通の手紙が届きました。
日時、どの科に入るのか、ちょっとした注意事項などが書かれた、入院通知書です。

さて、面談日です。

診察室というよりは、事務所といった感じの部屋に入った私に、自己紹介の後、執刀医がいきなり聞きます。
「質問は、何ですか?」
「は?」
「面談を希望されたということは、何か聞きたい事があるのでしょう?」

「いえ、何もありませんけど。ただ、とりあえず正規のプログラムをこなしてみようかな、と思っただけです」
「では、手術内容に関しては、きちんと理解しているのですね?」
「ええと、胆嚢を取るんです」
「胆嚢を何故取るのかは、分っていますか?」
「石と変な固まりがあるから」

子供の様な返事をする私に、50代前半かと思われる、医者でなければ生物の教師あたりが似合いそうな執刀医は、苦笑すると、手術について説明を始めました。

                 〜次回に続く〜

2006年11月14日 (火)  初めての入院 14

               〜前回からの続き〜

随分時間がかかりましたが、これで私は、ようやく入院です。

【1日目】
この日は、手術に向けての説明や検査が行われます。

たくさんの医師や看護婦、技師が、入れ替わり立ち替わり私の元を訪れ、注射を打たれたり、血液を何本も採られたり、聞いた事もない単語の並んだ紙にサインをさせられたりと、夕飯の時間まで忙しい1日が過ぎます。

そして、面談時間での執刀医もそうでしたが、彼らは皆、何故か「手術の危険性」「最悪の場合どんな事が起こりうるか」等、患者を不安にさせる事ばかり話すのです。

麻酔技師は、麻酔の事故やアレルギー反応によって起こりうる可能性……植物人間だとか死亡ぬかも知れないとか……について述べましたし、手術前の健康診断をした医師も、執刀医の助手だと言って挨拶に来た医師も、手術中にどんな酷い事が起こりうるかを、蕩々と述べます。

また、皆必ず「アレルギーがあるか」と聞くのですが、これが私を更に不安にさせたのです。
というのも、私、アレルギーはあるのですが、何が原因か知らないのです。
「保険で検査出来る範囲の物質ではない」という事しか、まだ分らないのです。
それなのに病院では、「xxにアレルギーはありますか?」「○○は?」「△△は?」と、それが私には、一体何であるのかすら分らない薬品に対して、毎回アレルギーの有無を聞かれるのです。

そんな話を聞いている内に、私の頭の中では、腹に小さな穴を開け、さっさと終わる筈の手術が、どんどん酷いシーンに変って行きます。
何かまずい事が起こり(拒絶反応とか)、医師達がバタバタと走り回り、腹は大きく切り開かれ、酸素マスクだの心臓にバンッとやる電気ショックだの、終いには、私は手術台の上で、活きの良い魚の様にびちびちと跳ね……テレビの見過ぎですね。

「あの、ちょっと待って!」
最後に話しに来た執刀医の助手に、私は思わず言いました。
「皆、何でそんな話ばっかりするんですか? 手術するのがどんどん不安になる様な話をされても、手術しなければ、それはそれで酷い事になるんだし、私としては、聞きたくないんですけど。ひょっとしてそれは、医療事故なんかの時に、訴えられても大丈夫な様にって事ですか?」

はい、これがビンゴでした。
執刀医の助手は、率直な私の問に、きちんと答えてくれました。
「みんつさん、他人の身体を傷つけるのは、法律では罰せられる事です。私達は、まして貴方の内臓を傷つけます。これは、医者であっても、勝手にしてはいけない事なのです。ですから、手術前にきちんと説明をして、貴方の同意を得て置かなければならないのです」

いやぁ、スイスの病院、こういうところは非常に事務的です。
これ、大切な事ではあるのでしょうが、患者が、ものすごく不安な気分で手術をしなくてはいけない状態にさせられるというのは、どうなのでしょうね?
私の後に入って来た女性(70歳位?)は、このせいで半泣きになっていましたが。
ちなみにスイスでは、家族の同意は必要ない様で、患者はこの恐ろしい話を、全て一人で聞く事になります。

さて、かくいう私もその夜、就寝間際になって、泣きになりそうになりました。

「みんつさん、明日は何時に起こしたら良いですか? 手術は8時からだから、7時半には安定剤を飲まないといけないのね。その前にシャワーを浴びるとすると、どのぐらい時間が必要かしら?」
病室の電気を消しに来た看護婦が、私に聞きます。

「ええと、じゃ、6時半頃でお願いします。あの、手術前に夫が来る事になっているのですけど、この病院は、面会は何時からですか?」
「13時からよ」
「えっ?」
「そんなに早くに来られても、他の患者さんの迷惑にもなるし、旦那さんには、手術が終わってから来てもらって下さい」
……麻酔や手術で、何かが起こって死ぬかも知れないって、あんなに脅しておいて、その前の面会はなしかよ。初めての手術なのに。

こうして私は、不安で眠れぬ一夜を過ごしました(隣のお婆ちゃんの鼾がすごかった、という噂もありますが)。

                     〜次回に続く〜

2006年11月16日 (木)  初めての入院 15

                   〜前回からの続き〜

【2日目】
手術当日です。

暗く静まり返った早朝の病室で私は、同室の人達を起こさないように、そっとシャワーを浴びました(トイレ、洗面場、シャワーは部屋の中にあります)。

寝起きが悪い上、安定剤を飲んだ私は、背中が開いたぺらぺらの手術着と、つま先に穴のある、へんてこな長靴下(10月26日の日記に画像有り)を身に着け、暫くぼんやりとベッドに座っていましたが、特にする事もないようなので、再び横になりました。

どのぐらい経った頃でしょうか、看護婦が二人、ベッドごと私を運び始めました。
「ふふ、こうやって運ばれるのは、楽しいですね」
そんなことを言い、病室のドアをくぐった辺りで、私の記憶はなくなりました。
その後、はっきりと目覚めるまでに私が憶えているのは、病室ではない、何処か薄黄色の照明がある部屋で、全身緑色の男性から、「気分はどうですか?」と聞かれた事だけです。

こうして私の手術は終わりました。

次に目が覚めた時、私は既に、元の病室に戻っていました。
「気分はどうですか? 何処かおかしいところはありますか? 吐き気や目まいは?」
私が起きるまで、側で様子を見ていたらしい看護婦が、聞きます。

今考えると、この時点の私は、まだ麻酔の余韻か何かがあったのではないかと思うのですが、いささか無茶をしました。

「何か食べ物を下さい! お腹が滅茶滅茶空いて、胃がきゅーっとなっているから」
「みんつさん、貴方は今、手術したばかりなんですよ。食事は、夜まで待った方が良いわ」
「待てません。何でも良いから食べさせて! ものすごい空腹なの」
「じゃあ、お茶にしましょう」
「お茶じゃ駄目です。お腹が空き過ぎて、胃が痛いんです」
「貴方、何処を手術したか分っている? ちょっと傷を見てみなさい」

手術着を捲ると、ちょうど胃のある辺りに絆創膏が貼ってあります。
「ね、空腹ではなくて、傷があるから胃が痛いのよ」
「でも、この痛さは、きゅーって感じで、お腹が空くといつもこうなるから」
「お茶だけにしましょうね」
「否、やっぱり何か食べたい!」

慌てて執刀医に聞きに行った看護婦は、ツヴィーバック(ラスク)とカミーレ茶を手に戻ると、呆れたように言いました。
「先生がね、『本人が食べたいって言うなら、食べさせてやれ』って言ったわ。でもね、本当に大丈夫かどうか、様子を見ながらゆっくり食べるのよ」
「はい。ありがとうございます」
そう答えた私は、確か5枚あったツヴィーバックを、がつがつ食べました。

ツヴィーバックが胃に収まると、今度は別の内臓が動き始めます。
「すいません、トイレに行きたいんですけど」
腕に点滴を2本射し、腹に4つ穴が開いていた私は、いきなり起き上がって良いものかどうか分らず、看護婦に言いました。

「しゅびんを持って来ましょうか?」
「えっ? それはちょっと」
「自分で歩いてトイレまで行けそう? 試してみる?」
「はい。もし、動いても構わないなら、そっちの方が良いです」
「念のため、ドアは開けたままにして置いてね」
看護婦にひじを取られ、前屈みになってよろよろとではありますが、私は手術後すぐ、トイレで用を足しました。

点滴のせいだと思うのですが、その後の私は、1時間置きぐらいにトイレへ行かねばならず、何度目かの用足しで、看護婦を呼ぶのが面倒になってしまい、一人でトイレに行こうとし、隣で寝ている、入院経験の先輩であるお婆ちゃんから「駄目よ! 勝手に行っちゃ、危ないでしょう!」と怒鳴られました。
(麻酔や手術の影響で、目まい、貧血等が起こる場合があるので、一人でトイレに行くのは、危ないのだそうです。)

その夜、私はまたしても、「痛くないから、鎮痛剤は要らない」と言い張り、「手術をしたばかりなんだから、今は痛くなくても、一応飲んで置いた方が良いわよ」と、看護婦に諭されました。

                    〜次回に続く〜

2006年11月20日 (月)  初めての入院 16

             〜前回からの続き〜

【3日目】
手術後すぐに食事をし、トイレにも一人で行った私は、この日はもう、じっと横になっているのが嫌で、病院内をうろついたり、写真を撮ったりしていました。

私の病室は4人部屋で、私以外の患者は皆、80歳前後のコロコロとした体型のお婆ちゃん達でした。
そして、彼女達は全員、全く同じ膝の手術をしていた為、ベッドから起きる事が出来ずにいました。

スイスでも、経費削減のせいでしょうか、病院内は人手不足らしく、私達患者が枕元のブザーを押してから、看護婦が来るまでには、いつも長い時間が掛っていました。
しかも、何故か毎回、まず見習い看護婦がやって来て、事情を聞いた後、正規の看護婦を呼びに行くので(この間にも、長い時間が掛ります)、私達は「緊急だったら、もう死んでいるよね」と冗談を囁き合っていた程でした。

そんな状態の病室で、私はうろつき回っていたわけですから、お婆ちゃん達にしてみれば、ちょっとした用事なら、看護婦を呼ぶよりも私に頼んだ方が、気楽であったのでしょう、私はいつの間にか、病室の雑用係となっていました。

そのこと自体は、動いている方が楽だった私にしてみれば、全く問題ではなかったのですが、一つだけ、困った事がありました。
以前にも一度書いたことがありますが、私の本名は、ドイツ語の人達には、覚えるのが酷く難しい名前らしいのです(真ん中の文字が濁る音であるのが、難しい様です)。
そして、これはしょっちゅう起こることなのですが、やはりお婆ちゃん達、私の名前を覚える事が出来なかったのです。

「みんつです、よろしくお願いします」
入院初日、病室の皆にそう言って、挨拶をして回ったにもかかわらず、お婆ちゃんの一人が、私に聞きます。
「まーや、悪いのだけど、コップにお水を入れてもらえるかしら?」
……まーや? それって、私の事?

他の二人は、やはり覚えられなかったのでしょう、何とか名前を呼ばない様にして、私と話をしていましたが、隣に寝ていたお婆ちゃんは、とても気さくな調子で、私を「まーや」と呼ぶのです。

いえいえ、これだけでしたら、まあ、大した事ではありません。
実際スイスに暮らしていると、こういう事はしばしば起こるのです。
ですから私は、いつもの様に、お婆ちゃんの間違いを正したりせず、「ま、いっか。入院中はまーやにして置こう」と、普通に返事をしていたのです。

しかしある時、何と、本物の「まーや」がやって来ました。

病室に来た看護婦に、お婆ちゃんが得意そうに言います。
「まーや看護婦、この子もね、まーやって名前なのよ。貴方と同じね」
……否、違います。それは、お婆ちゃんの勘違いです。看護婦さん、頼むからこの話はさらっと流して。

ところがこのまーや看護婦、たまたま時間があったのか、遠いアジアの端から来たおかしな入院患者が、自分と同じ名前である事が珍しかったのか、この話題を盛り上げ様としてくれました。
そして私は、仕方がありません、真実を言わなくてはならなくなりました。
……いやあ、3日間もまーやとして皆に接していたわけですから、ばつが悪いの何のって。

こんな風にして3日目を過ごしていた私は、夕方の検診時に執刀医から「そんなにちょろちょろしているなら、もう家に帰っても良いぞ」とのお言葉を頂きました。

その日の就寝前、看護婦から「明日は何時に退院しますか?」と聞かれた私は、またもや無茶な返答をしてしまった様です。
「ええと、夫が出勤前に寄ってくれるそうですから、朝の5時か6時頃になります」
「みんつさん、いくら何でも、それは早過ぎます。せめて、朝食後にして下さい」
……だって、「好きな時間に退院して良い」って言ったじゃん。

こうして私は、翌日、無事退院しました。

                 〜完〜

次回は少し、「入院に関するこぼれ話」等をしようかと思います。
えっ、もう飽きましたか?

2006年11月21日 (火)  入院こぼれ話 1

掲示板でも丁度その話題が出ましたので、今日は『病院内の看護婦』について書こうと思います。

先進国では何処もそうなのでしょうが、スイスの病院でも、経費削減の為か、人件費が削られているそうで、看護婦は皆、こなし切れない程の仕事量を抱えている様です。
私が入院した病院でも、看護婦達は常にせわしなく動いていて、ちょっとした用事では、彼女達を引き留めるのが躊躇われました。

また、スイスの病院では、日本の様に「患者ごとに、担当の看護婦が割り当てられる」のではなく(私の母が入院した病院はそうでした)、「全ての看護婦が、全ての患者を診る」という具合ですので、腹を切った私にも、膝にプラスティックを埋め込んだ、隣のベッドのお婆ちゃんにも、同じ看護婦がやって来るのです。

しかも、枕元のブザーは「どの病室からか」を表わすだけで、「どの患者からか」は看護婦には分りませんし、インターフォンの様なものでナース・センターと繋がっているわけでもありません。
ですから、4人部屋に入院した私がブザーを押すと、看護婦には、「腹の調子が悪いのか」「膝の調子が悪いのか」はたまた「誰かがベッドから転げ落ちたのか」、分る術がありませんから、まずは特にすることもない見習いの看護婦が、手ぶらで病室に送られます。

そして、こんなやり取りが行われます。
「ブザーを押したのは、どなたですか?」
「ブザーを押したのは私ですけど、用があるのはxxさんです。xxさんは今、眠っているから」
「xxさん、どうされましたか?」(眠っている患者を起こす看護婦。)
「良く分りませんが、さっきからこの器械が、ぴーぴー鳴っているみたいです」

ここで、見習い看護婦は何もせずに、正規の看護婦を呼びに行きます。
そして、病室に現われた看護婦は、見習いがしたのと全く同じ問答を繰り返します。
その後、一旦ナース・センターに戻った看護婦は、必要な物を持って再び病室に現われ、ここでやっと患者の望みが叶えられます。

ある晩のことです。
同室の一人の器械が、深夜に鳴り出しました。
2時か3時頃でしょうか、私を含め眠っていた他の3人は、その音で目が覚めます。
ぴーぴー鳴っている機械を付けた当の本人は、麻酔がまだ効いている様で、大きな鼾をかきながら眠っています。

仕方がありませんから、私の隣に寝ていたお婆ちゃんが、自分の枕元のブザーを押します。
「さて、これでまた眠れるわね」
そう思った私達は、その後30分近く、この「ぴー」を聞かされる事になりました。

私達3人は、すっかり目が覚めてしまい、枕元の電気を付けて、こんな事を言い合います。
「すぐに駆け付ける必要のないものなら、何でぴーぴー鳴らせるのかしら?」
「もし様態が急変して、緊急事態になっていたら、もう死んでいるわね」
「こんなに待っても誰も来ないんだから、スイスでは、病院に入院するのが一番危険かも知れないわね」
「救急車を呼んだ方が、早いかも知れませんね」
この間私達は、代わる代わる何度もブザーを押しているのです。

そして、やっと現われた看護婦は、私達が何度もブザーを押したのが気に入らなかったのでしょう、苛立ちを隠しもせずにこう言い放ちました。
「ブザーを押しているのは、誰!?」
ここで、堪忍袋の緒が切れた隣のお婆ちゃん、看護婦に一喝です。
「あんた、このぴーぴー鳴っている音が聞こえないの!?」
看護婦は何やらぶつぶつ言うと、換えの点滴を取りに、そのままナース・センターに戻って行きました。

そこで私達はまた、深夜のお喋りです。
「せめてブザーぐらい、止めてから行けないのかしらね」
「あの人、何で怒っているんでしょうね」
「ああ、もう眠れないわ」
「こんな事なら、ヤッセン(花札の「こいこい」みたいなものです)のカードでも買って来て、みんなで夜通し遊びましょうか?」
「良いわね。寝るのは、明日の昼だって構わないんだし」

……もちろん、親切な看護婦さんもいっぱいいましたが、「重病の時は、日本で手術しようかな?」と思った一夜でした。

2006年11月23日 (木)  入院こぼれ話 2

申し訳ありませんが、今日は下品な話です。

手術後の私は、点滴のせいだと思うのですが、1時間置きぐらいの間隔で、トイレとベッドを往復していました。
トイレは部屋の中にありますので、ベッドからはほんの5mといったところですが、手術直後の私にとって、点滴の下がった、洋服掛けの様な物をがらがらと引っ張りながら、その距離を歩くのは、それだけで大仕事でした。

そして、そのトイレですが、私は、入る度に不思議に思う事がありました。

便座に、その、下の毛が落ちているのです。
それは短く切られていて、ぱっと見には、埃のような感じで分らないのですが、側に行っていざ座ろうとすると、「ぁ、また落ちてる」という具合なのです。
小さな毛が2、3本ですから、多分、落として行った本人も、気付いていないのでしょう。

しかし、頻繁にトイレを使用せずにはいられない私には、それは、あまり嬉しい物ではありません。
「ちぇ、自分が使った後ぐらい、きちんとして行けよな」
そうは思うものの、同室の3人は皆、80歳前後のお婆ちゃんですし、膝を手術していたため、立つことさえ出来るかどうかの状態です。
ですから私は、毎回黙ってそれを払い、用を足していました。

ところが、何度目かのトイレの時です。
便座にぼんやりと座っていた私は、ある事に気付き、はっとしました。

そう、同室のお婆ちゃん達は、皆膝の手術をし、何本もの管がそこに繋がれている為、自力ではトイレに行かれないのです。
つまり、彼女達は、ベッドの中で用を足しているのです。

……ハハハ、これは私のだ。そういえばスイス女性は、下の毛のお手入れをする人、少ないもんな。短く切られている毛なんて、ないか。えっ? ってことは、私のは、じゃんじゃん抜けているって事? 何で? ひょっとして、手術中に使用した薬が強過ぎたとか? うーん、下の毛は別になくなっても良いか。あっ、でも、頭の毛も抜けたらどうしよう?

それ以降私は、用心深く便座を観察しましたが、やはり毎回、数本の落とし物が出るのです。

そして、翌日です。
看護婦に促されて私は、シャワーを浴びる事になりました。

シャワー室で裸になった私は、両方の脇と鎖骨の下に付いている、おかしな物に気付きました。
肌に丸いプラスティックが貼られていて、その真ん中に、磁石のような物がはまっているのです。
私の少ない知識では、これは確か、心電図を取る時に使う物に似ています。
この磁石の部分から、機械に電気のコードが繋がって……

もう一度背中の開いた手術着を着直すと、私は胸元を少し引っ張って見せ、看護婦に聞きました。
「あの、これを付けたままシャワーを浴びちゃって、大丈夫ですか?」
看護婦は「あら」と笑います。
「これは、手術後に取り忘れたんだわ。別に、このままシャワーを浴びても大丈夫だけど、もう必要ないから、取りましょう」

昨日一日中、私はこれを付けたまま、寝たり起きたりしていたわけです。
人間、他の事に気を取られていると、自分の身体におかしな物が貼られていても、案外気付かないものなのですね。

その後、再びシャワーを浴びに行った私は、またもやある事に気付き、一人苦笑しました。
はい、下の毛が、つるっつるぅなのです。
便座に落とし物があったのは、知らぬ間に、剃られていたからですね。

それにしても、私の手術箇所は4つですが、皆、臍より上です。
どうして、そのずっと下を剃ったのでしょうか?
そんな私の疑問に、夫B氏はこう言います。
「医者だって、ちょっとは楽しみが欲しいだろうよ」
……あのね、それは、あんたとは違うんだから。

それにしても、全身麻酔とは、改めて恐ろしいものですね。
何をされていても、全く分らないんですからねぇ。

2006年11月27日 (月)  ♪りんごは何にも言わないけれど〜♪

スイスのとある田舎の教会。




ここ(↓)は『告解室』。

教徒と神父が、各々隣り合った狭い個室に入り、金網越しに犯した罪を告白し、許しを請う場所です。



その中では……



……皆さん、健全に暮らしている様です。

2006年11月29日 (水)  M氏の夏

我が家の庭に茶トラ猫M氏が現われてから、約5ヶ月が経ちました。

最初こそ警戒していたM氏も、今ではすっかり飼い猫になり、外が寒くなって来たせいもあるのでしょう、1日の大半を家の中で過ごしています。
ですからM氏は、専業主婦でやはりほぼ毎日家、もしくはその周辺で生活をしている私と、長い時間を共有しています。

朝は、その肉球で掛け布団から出ている私の手や頭を二度叩いて起し、朝食をもらうと、私のコンピューター横で鼾をかき、昼食が済むと、最も陽当たりの良い我が家のベッドで丸まり、夕食後は私達夫婦と一緒に居間でくつろぎます。
外へ行くのは、その合間のちょっとした時間だけで、必ず牛臭くなって帰って来ます。

そんなM氏の、夏の間の楽しみは、畑に出ている私と遊ぶ事でした。

毎日午後になると畑に出て、せっせと収穫をしていた私の所に来ては、周りを勢い良く走ってみたり、木の上に駆け上ったり、時にはしゃがみ込んでいる私の膝に登って、私の気を引こうとしていました。

「M氏、これじゃ畑が出来ないよ〜」
そう言いつつも、いつもその可愛さにやられてしまう私は、膝の上のM氏をひしっと抱きしめてみたり、小枝を拾って木の上を突いたりして、楽しんでいました。

そんなある日のことです。

密集して生えていた為に、小さなナメクジの住み処となり、穴が開いたり、腐り出しているレタスの葉を千切っていた私の元へ、いつもの様にM氏がやって来ました。

ダダダダダッと側まで駆けて来たかと思うと、急に向きを変え、レタスの向こう側にある木に飛び付きます。
その勢いに、レタスに気を取られていた私は、思わず声を上げます。
「びっくりするよ、M氏!」
そんな私の反応に、M氏は、満足そうに木に登り始めます。

いつもでしたら、ここで私が小枝を拾って、木の上のM氏と対戦をします。
ところがこの日のM氏、機嫌でも良かったのか、登りかけた木を急いで降りると、芝の上を走り始めました。
そして、私が先程偶然掘り出し、土を乾かせようと置いていたじゃが芋を見付けると、そこに挑み掛りました。

我が家の芝は、傾斜が付いていますので、M氏の攻撃を受けたじゃが芋達が、コロコロと転がって、垣根の中に入って行きます。
「ああ、M氏、それはちょっと〜」
慌ててじゃが芋を追い掛ける私の足下を走り抜けると、今度はM氏、一番大きく育っているレタスに、いきなり猫パンチです。

「M氏ぃ〜、やめてくれぇ〜」
じゃが芋を手に、レタスに駆け寄る私を見て、勢い付いたM氏は、畑に沿って一列に植わっている、下の階に住むお婆ちゃんの薔薇を、次々と猫パンチ。
今にも溢れそうに大きく咲いていた、赤や黄、白の花びらが、M氏の攻撃を受けて、地面にはらはらと舞います。

「ぎゃ〜、あっはっはっはっは〜、M氏、それは面白過ぎだよ」
畑の真ん中で笑い声を上げる私に満足したのか、M氏は余裕の足取りで、来た道を引き返すと、隣の敷地にある牛小屋に消えて行きました。

でもね、M氏はまだ、ねずみが捕まえられないんです。
下のお婆ちゃんの猫C氏がくれた、ねずみで遊んでいて、逃げられていましたから。

……M氏よ、君は可愛さで世を渡って行くつもりかい?

2006年11月30日 (木)  古新聞

ある日のこと、夫B氏が何やら床の上で、ごそごそとやっています。
私が気になって覗くと、B氏は、回収用の古紙を束ねています。

こういう時私は、ちょっぴりすまない気分になります。
束ねた後の古紙を運んでもらうのは、まあ重いですから、逞しいB氏に頼んでも良いでしょうが、束ねる事自体は、専業主婦である以上やはり私がすべきでしょうし、それをB氏が始めるまで放って置いたという事実に、「私って怠け過ぎかしら?」という罪悪感を覚えるのです。

「だったら、さっさとやったら良いじゃないか!」
そう思われる方もいるでしょうが、専業主婦には、毎日たくさんすることがあるのです。
例えば、畑で野菜を作ったり、猫と遊んだり、ネット・サーフィンをしたり、たまには自分の昼食を豪華に作ってみたり……へへへ、どうもすいません。

ですから私は、すかさず言いました。
「B氏、ありがとう。でも、無理にやらなくて良いからね。それは、一応私の仕事だと思うから」
「無理じゃないよ。やりたいから、やっているんだ。みんつは、気にしなくて良いよ」
「本当?」
「ああ、何となくその気になったんだ」
「じゃ、お願いしちゃおうかな。あっ、『スード・オースト・シュヴァイツ(この州で発行されている新聞です)』だけは、別にして置いて。あれ、冬に薪を焚くのに便利だから、捨てないで欲しいの」
「おお、分った」

暫くして、再び私が覗くと、B氏はまだ古紙を束ねています。
ところが、その手元には!!

「あっ、B氏、『スード・オースト・シュヴァイツ』も束ねている! 何やっているの!? それは、捨てないでって言ったじゃん」
「へへへ、ちょっとだけだから、大丈夫だよ」
「ちょっとだけって、ああ、こっちにも、あっちにも、全部の束に『スード・オースト・シュヴァイツ』が入っている! 貴方、何もかも関係なく束ねているでしょう。ちょっと、籠を見せて!」

そう言うと私は、B氏の背後に回り、いつも古紙を入れて置く籠を覗きました。
ええ、もちろんありませんとも。
除いて取って置く筈の『スード・オースト・シュヴァイツ』は、殆ど残っていません。

「何で、B氏? どうして『スード・オースト・シュヴァイツ』も束ねるの? 私、はっきり言ったよね? 黙っていたら、それも束ねちゃうと思ったから、わざわざ頼んだのに、どういうこと?」
「あはははは、大丈夫さ。冬になるまでには、まだたくさん『スード・オースト・シュヴァイツ』は来るから」
「大丈夫じゃないよ! それを今取って置いたら、冬になってから『ポシュトリー(別の新聞で、かなり小さいのです)』を、ちまちま丸めなくても済むじゃない。だから私は、敢えて、取って置いてって言ったのに」

「じゃ、この次束ねるのから、ちゃんとやるよ」
「この次って、もう殆ど残ってないじゃん。やり直して!」
「あはははは、もう束ねちゃったから、無理だよ」
「全部解いて、やり直して」
「あのな、みんつ、ぱっと見ると多そうだけど、本当はな、そんなにたくさんの『スード・オースト・シュヴァイツ』は、入っていないんだよ。安心しろ」

「何言ってんのよ! これは何? ここにもあるわよ。ああ、この束なんて、殆ど『スード・オースト・シュヴァイツ』だけじゃない。もう、こんな事なら、やってくれない方が良かったよ。ちゃんと解いてよね」
「あははははは」
「あはは、じゃないよ。ちゃんとやって! あっ、そう言っているそばから、何でまたそれを縛るわけ? なし崩し的に終わらせようと思ったって、そうは行かないんだからね」

「ははははは」
「だから、はははじゃないって、言っているでしょう。もう、止めてよね。そうやってじゃんじゃん縛ったって、また解くんだから、二度手間になるような事はしないでよ。ちょっと、聞いているの! そんなやり方、私が妻である以上、通用しませんからね!!」
楽しそうに『スード・オースト・シュヴァイツ』を束ね続けるB氏と、それを端から解いて行く私。

……こんな風に、みんつ家の休日は過ぎて行きます。

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