2004年6月1日 (火)
神様の忘れ物
スイスの国教は、キリスト教(プロテスタント)です。
カソリックでも、仏教でも、イスラム教でも、一応何でも認められていますが、キリスト教徒の場合は、宗派に関わらず、地元の教会に税を収めなくてはいけません。
そしてこれは、役所に何らかの届出を出した時点で、記入しなくてはいけない項目で、外国人でも同じです。
スイス人にとって、異教徒を受け入れるという事は、まあ問題はないようですが、無宗教という観念は、理解し難いようです。
以前私が役所で、無宗教だ、と言った時、役所のお姉さんは、
「無宗教って・・・・・・貴方、死んだら誰の所に行くの? イエス、仏陀、アラー?」
などと言い出しまして、
「誰の所にも行きません」
と言う私に、しぶしぶ、といった感じで、許可を下ろしました。
ちなみに、我が夫B氏ですが、彼も彼の家族もプロテスタントです。
・・・・・・というのは、仕事の都合上の建前でして、彼自身は「仏陀の方が好きだ」などと言っていますし、周りからも「B氏には、オレンジ色の袈裟が似合う」などと言われております。
彼の家族にしても、日曜日に教会に行く訳でもないですし、どちらかというと、家系の宗教がそうだから、そのままにしている、という風です。
周りの知人にも、特に神様を強く信じている、という人物はいません。
さて、そんな状態でありながら、彼らがキリスト教の教えから、無意識に強く影響されている観念、というか生活習慣がありまして、それが私には、いつも苦労の種なのです。
それは、【Schuld:罪,(負い目としての)責任,過ち】の観念です。
何かまずい事があると、彼らが真っ先に口にする言葉は、「誰がやった?」もしくは「それ、私のせいじゃないわよ」です。
これ、私、嫌いですが、彼らには重要な事なのです。
何故なら、罪は償われなくてはいけないから。
大袈裟に言えば、やった犯人を突き止めて、その過ちの償いをさせるのです。
ですから彼ら、謝るという事が出来ません。
謝ったら最後、その責任を取らなくてはいけないのですから。
このせいで、日常の些細なミスでも、事が大きくなります。
「私が家の鍵を忘れたのは、出掛けに貴方が話し掛けたからいよ。私のせいじゃないわ」とか
「君があの時ああ言ったから、僕はこうしたんじゃないか。これは、君の責任だ」
と言う風に、スイス人は常に、責任のなすり合いをします。
問題が解決する事よりも、誰が悪いのかを突き止める方が、重要なのです。
「私は、キリスト教徒じゃないから、罪はどこにもないの。誰がやったかなんて、興味ないわ。さあ、これからどうするかを考えましょう」
私がこう言うと、皆、本当にびっくりします。
誰も罪の責任を取らなくて良い・・・・・・この考えが、彼らにはひどく新鮮であり、そういう風に人間関係が成り立つ事が、驚きなのです。
「間違いは誰にでもあるから、謝ってくれればそれで良い」
「本当に、それだけで良いのか?」
「うん、ごめん、の一言で気が済む」
「・・・・・・ごめん」
「OK、じゃ、このことはもう終りね」
「本当にそれで終りか!? 他に、何もしなくて良いのか? もう、怒ってないのか?」
「そうよ、私、日本人だもの」
これ、随分前の、我が家の会話です。 |
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