2006年7月3日 (月)  暖炉解体 1

(6月27日の日記『ガキの使い』をお読みになっていない方は、まずそちらからどうぞ。)

火曜日、解体前夜。

偶然、友人の訪問日が数日ずれることになり、私達夫婦は、何も言わずに解体屋のアポイントを受け入れることにしました。

「解体屋に任せたら、きっとその辺に、大雑把に覆いを掛けて終わりだからな。俺は、自分できっちりやるぞ」
夕方仕事から戻った夫B氏の両腕には、大きなビニール・シートが一巻、太さや素材の違うガム・テープが3種類、ピストル状になった大きなホチキス(名前が分りません)が、抱えられていました。

そして言葉通り、夕食を終えたB氏は、手際良く、解体予定の暖炉がある部屋をビニールの壁で二つに分けました。
天井、床、壁とビニールの隙間には、銀や青のガム・テープが走り、どんな小さな粉塵も決して通さない、といった様子です。

「すごい。まるで病院の無菌室みたいだね」
「これで各部屋のドアを全部閉めれば、完璧さ。それは明日、みんつがやってくれ」
「うん、分った。それにしても、解体屋は何時に来るのかしら? きっと午前中だよね。私、一応早起きしておこうかな?」
そんな話をしながら、私達は眠りに着きました。

水曜日、解体一日目。

……スイス人は朝が早いからな。解体屋、9時にはもう来るかも知れない。……地元の小さな個人店だから、今日の仕事はうちだけだったりして。……否、ひょっとしたら、滅多に仕事なんて入らないのかも……そうなると暇だから、8時頃には来ちゃうかな。……その可能性はかなりあるぞ。……8時だな、きっと。

朝7時過ぎ、B氏を見送った私は、まだベッドの中でごろごろしながら、そんなことを考えていました。
すると、寝室の窓の下で、聞き慣れない車の止まる音がします。
時計を見ると、まだ7時半です。
郵便配達のバンは、毎朝9時に来ますし、普通の乗用車よりも重い音ですから、下の階に住むお婆ちゃんの娘が、遊びに来たのでもなさそうです。
この辺を毎日走っているトラクターの音にしては、軽過ぎます。

!!! もしや!!
窓から覗くと、家の前に、車体に広告の入った解体屋のバンが、停まっています。
重い音がしたのは、煖炉の瓦礫を入れる為の大きな台が、バンの後ろに牽引されていたからです。
「げっ、やばい」
私は、慌てて服を着ると、髪を梳かし、トイレに飛び込んで顔を洗いました。
私が顔を拭き終わらない内にも、玄関のチャイムが鳴ります。

「おはようございます」
そう言う私に、お腹のぽっこりと出た解体屋のおじさんは、もそもそと返事をして、部屋に入って来ました。
Tシャツに短パン、白い靴下に黒の革靴というおかしな格好で、片手にはハンマーの入ったバケツを提げています。
……業務用の掃除機は、後で運ぶのかな?
この時私は、何気なくそう思ったのですが、案外これがポイントを突いていた事は、後になって知りました。

早朝7時半、アポイントの電話も入れずにやって来て、当たり前のように仕事を始めようとする解体屋に、私は軽くジャブを打ってみることにしました。
「実は私、今日貴方が来る事を知らされていなかったんですよ」
「じゃあ、何でこのビニールが貼ってあるんだい?」
これが解体屋の第一声です。
「下に住むお婆ちゃんが、偶然教えてくれたから。大家からも、もちろん貴方の会社からも、私は何も聞いていないんですよね」
「……俺は、あんたの大家にちゃんと伝えたから」

解体屋はそれだけ言うと、ビニール・シートを広げ、仕事に取りかかりましたが、シートの端をテープで固定したりは、しないようです。
……B氏が自分でやったのは、正解だったな。
私は、そこに解体屋を一人残すと、別の部屋で一日を過ごしました。

            〜次回へ続く〜

2006年7月4日 (火)  暖炉解体 2

           〜前回からの続き〜

水曜日、解体一日目の夕方。

解体屋が帰った部屋を覗いた私は、思わず苦笑しました。

暖炉がすっかりなくなり、解体屋が持参したビニール・シートも取り除かれたその部屋は、床一面真っ白に塵で覆われ、あちこちに石の固まりが落ちています。
そして、部屋から玄関までには、靴跡が幾つもくっきりと残っています。
警察の優秀な鑑識職員でなくても、彼の履いていた革靴が、何処の製品か分るのではないか、と思う程です。

解体屋は、石の大きな固まりこそ持ち帰ったものの、部屋をそのままにして帰った様です。
私達夫婦が、ここで普通に暮らしている事や、隣の寝室に行くには、その床を通らなくてはいけない事に関しては、どうやら興味がないようです。

「おお、こりゃすごいな。この部屋を通るには、靴に履き替えた方が良いかな?」
仕事から戻った夫B氏も、本気とも冗談ともつかない風に言います。

「まあ、明日も来ることだし、あの解体屋なら、こんなもんでしょう。私、彼の作業が全部終わるまで、わざとこのままにして置こうと思うんだけど、良いかな?」
「ああ、このままで良いさ。解体屋がちゃんと元通りにして行くかどうか、観察しようぜ。ところで明日は、新しい暖炉が来るのか?」
「多分、そうだと思う。どんな暖炉だろうね?」
「あまり期待しない方が良いぞ。きっとしょぼいのが来るから。あの大家は、絶対けちったと思う。俺たちが割った薪の入る大きさだと良いんだけど……」

私達が去年の夏、今現在と切り出している薪は、元の煖炉の大きさを計って決めたものでして、長さが約30cmに揃えられています。
新しい煖炉がより小さい場合、私達は納屋に積んである大量の薪を、鋸で1本1本短く切り直さなければなりません。
太さは、単にもう一度斧で割れば良いだけですが、長さを変えなければいけない場合、恐らく1本ずつ、手で切らなければならないでしょう。
これは、大変な手間です。

私はその日、夜中にトイレに行くのに危険でない様、寝室の入り口にだけ掃除機を掛けると、他はそのままにして置きました。

                〜次回に続く〜


2006年7月5日 (水)  暖炉解体 3

                〜前回からの続き〜

木曜日、解体二日目。

解体屋は、今日も8時前に来るということです。
昨日の様に慌てないで済むよう、少し早起きした私は、窓辺に腰掛け、外を眺めて解体屋を待っていました。

「あぁ、雨が降っている……ある程度覚悟した方が良いな、これは」
そんな私の予想は、ええ、残念ながら裏切られませんでした。

車から降りた解体屋は、濡れた靴のまま我が家に入り、昨日残して行った足跡の上に、新しいものを刻みました。
その手には、今日はビニール・シートもありませんし、もちろん掃除道具もありません。
……うーん、箒もなしかなぁ?
私は、解体屋を一人にして、自分の部屋に行きました。

幾らも経たない内に、隣の部屋でPCをいじっている私の耳に、嫌な音が聞こえて気ました。
「ズー、ズー、ズー……」
この音の正体は、見に行かなくても分ります。
細かい石の塵で覆われた木の床の上で、解体屋が、何か重い物を引きずっているのです。

……部屋の隅に、新しい暖炉に使う石の板が3枚積んであったけど、あれだな。
持ち上げるには、あれ、明らかに重そうだもんな。
あれじゃ床は、きっとぎたぎただわ。……ははは、この部屋が賃貸で良かった。

その後、暫くの間「ガタガタガタ」だの「ゴゴゴゴゴ」という機械音がしていたかと思うと、解体屋の毒づく声が聞こえました。
「あっ、くそう!」
……ん、何か失敗したか? 作業は、はかどっていないのかな? おっちゃん、ちゃんとやってくれると良いけど。

「ちょっと、すいません」
今度は解体屋、私を呼んでいる様です。
「はい、何でしょう?」
「床の鉄板を外したいんだけど……くそ、壊れちまった。全く、何てことだ……」

見ると、解体屋の手には、プラスチックの破片が握られています。
その茶色の破片は、私にも見覚えがあります。電気のスイッチのカバーです。
私が視線を上げると、壁のスイッチがあった場所では、赤や青のコードが数本剥き出しになっています。
その下の床には、壁に固定されていた防火用板が、立てかけてありますから、きっと板を外した時に、その角か何かがスイッチの部分に当たったのでしょう。

「ああ、良いですよ、そのぐらい。幾らもしないだろうし」
「でも……くそっ、何で壊れるんだ。ちくしょう……」
「その辺のスーパーで買えると思うから、大丈夫ですよ」
「否、これは俺が直すけど……くそ、くそっ」
「……」
どうやら、物自体がどうこうというよりも、それを壊してしまったという事実に、解体屋は腹を立てているようです。

スイッチのカバーを壊した事を謝るためならともかく、こんな会話に付き合うために、わざわざ呼ばれたのではありませんから、私は解体屋の独り言を遮りました。
「もう、それは良いですから、貴方はやるべき予定のことを、まずやっちゃって下さい。そんなのは、最後に直せば良いですから」
「……ええと、ねじ回しはありますか?」

夫B氏の工具箱を渡すと、解体屋が再び毒づき出す前に、私は自分の部屋に戻りました。

                        〜次回に続く〜

2006年7月6日 (木)  暖炉解体 4

                    〜前回からの続き〜

木曜日、解体終了。

電気のスイッチ・カバーを探していたのでしょう、午後遅くになってから、やっと来た解体屋は、静かに作業をしていたかと思うと、少しだけ改まった口調で、再び私を呼びました。
「煖炉の使い方を、少し説明したいのですが、今、時間はありますか?」

私が行くと、隣の部屋には、既に新しい煖炉が設置されていました。
しかし……
古い煖炉の3分の1ぐらいの大きさしかない、金属の煖炉が、大きすぎる防火板の上に、ちょこんと置かれているのです。
……え、こんなんで大丈夫なの?

その煖炉は、両側面の前半分と上面のやはり前半分が、石の板で覆われていて、そこで幾らか暖を保存しておけるようではありますが、以前の煖炉と比べると、その容量が遙かに少ないであろう事は、容易に推測出来ます。
また、薪を入れる部分は、中の火が見える様、ガラス張りになっているのですが、解体屋曰く、
「ガラスが黒ずむので、あまり火が掛からないように、薪を焚いて下さい」
それでは、私達が切り出した薪の大きさでは、立たせて入れたとしても、2本が精一杯でしょう。
しかも、ガラス張りの部分、つまり開口部が大きく取られているということは、薪を足す際には、気を付けて開閉しないと、煙が部屋に逆流してしまいます。

……うーん、こういう煖炉は、ちょっとお洒落なレストランの隅にでも置く為にあるんじゃないのかな?
白っぽい灰色の石板と、黒っぽい灰色の金属部分で、デザイナーはモダンな感じを醸し出したつもりなのでしょうが、築300年のこの家の中では、はっきり言って逆効果ですし。

そんな私の不安も知らず、解体屋が言います。
「では、古い新聞紙を何枚か下さい」

一通り説明を終えた解体屋に、私は思い切って聞きました。
「これで、作業は全て終わりですか?」
「ええ、これで終わりです」
「この煖炉は、前の物に比べて随分と小さいですけど、同じぐらいの力があるのでしょうか?」
「そりゃ、前のように1回焚いたら何時間も暖かい、ってわけにはいかないけど、こまめに薪をくべていれば、同じぐらい暖かいはずだよ」
「でも、夜中は薪、くべられないですよね。朝は、また元の寒さに戻っちゃいませんか?」
「まあ、それはそうだけど……今度のは金属で出来ているから、部屋が暖まるまでの時間は、短いはずだよ」
……あんた、私が一生働きに出ない、っていう前提で話してないかい?

これ以上解体屋と話しても、煖炉は既に設置されているのですから、実際に使ってみるしか仕方がありませんし、大家であるC夫人が、私達夫婦に何も聞かずに決めた以上、これで我慢するか引っ越すか、ということなのでしょう。

さて、どうしましょう?

私は少し考えて、スイスで一番効果的だと思える方法で、長い勝負に出ることに決めました。

                〜次回に続く〜

2006年7月7日 (金)  暖炉解体 5

                 〜前回からの続き〜 

私が考える、スイスで一番効果的な問題解決方法とは何か?
それは、問題そのもの自体について、何も明確にしない、です。
誰がしたのか、何が原因なのか、何故起こったのか等について、一切触れないということです。

スイス人は、喧嘩の出来ない国民です。
何か不都合なことが起こった場合、お互いに話し合って、双方が合意に達する結論を出したとしても、その後の関係は、必ず悪くなります。

何故か?
スイス人は、これを感情的に受け取るからです。
「xxさんは、私のことが嫌いに違いない」という風に考え、心を閉ざしてしまうのです。
上辺は変らずに親切ですが、彼らと貴方が再び心地良い関係を築くことは、かなり難しくなります。

ここで私が、大家に電話を掛けて「煖炉について、何故相談をしてくれなかったのか?」とか「貴方が選んだ煖炉は、小さ過ぎると思う」などと言ったら、私達夫婦は、次の部屋を探す結果になるでしょう。
しかも、私が住んでいるような小さな村では、皆が何らかの形で親戚関係にありますから、この村だけでなく、付近の村に住み難くなる可能性も、決してばかに出来ません。

さて、どうしましょう?

私の希望は、2つです。
一つは、今後、私の住む部屋について、何らかの変更が必要であると大家が考えた場合、私達夫婦にも意見を聞いて欲しい、です。
もう一つは、冬になって、もし新しい煖炉で十分な暖が取れなかった場合、私達夫婦が快適に暮らせる為の処置をして欲しい、です。
場合によっては、より大きい煖炉と換えて欲しいのです。

「そうそう、私、考えたんですけどね、この次何かある時は、我が家と予定を決めた方が良いと思うんですよ。せっかく来て頂いたのに、家に誰もいなくて帰らなくてはいけない、なんてことになったら残念だし、何よりも貴方の忙しいお時間を、無駄にすることになりますから」
解体屋に私は、出来るだけさりげなく、単にその方が効率的だから、という風に話ました。
「でも俺は、ちゃんと大家に話したし……大家はあんたに話さなかったのか?」
「大家さんは、私に何も言いませんでした。忘れちゃったのか、重要じゃないと考えたのか……どっちにしても、今後貴方が無駄足を踏まないで済むように、我が家への訪問予定は、我が家と決めた方が良いと思うんです」
「俺は、あんたの名前も電話番号も知らないから……大家に頼んだんだ」

我が家の名前や電話番号は、電話帳にだって載っていますし、もちろん大家に聞けば分ることです。
解体屋は、ただ、自分の責任だと言われたくないのです。
私は、そんなことは一言も言っていませんが、解体屋には、後ろめたい気持があるのでしょう。
「じゃ、この次の為に名前と電話番号を渡して置きますね。ちょっと待っていて下さい」
私はにっこり笑って言うと、メモ帳にそれらを書き留めました。

解体屋の口、もしくは、その妻だの知人だのの口から、この事が大家に伝わるのは、間違いないでしょう。
大家がそれを聞き、自分の怠慢について、幾らか居心地が悪く感じるのも、間違いないでしょう。
他人からの評判を気にしたり、罪悪感があると、それを埋め合わせるような行動に出るのも、やはりスイス人の特徴なのです。

これは、私の「希望その一」である、我が家の予定を決める時は、我が家の都合も聞いて欲しい、についての「対策その二」です。
「対策その一」は、既に下の階に住むお婆ちゃんから、伝わっていることでしょう。
これは、大家が私の希望をかなえるまで、「その三」「その四」と続く事になります。
毎回自分が発注した業者から、不都合があったと聞かされるのでは、大家だってばつが悪い筈です。

「希望その二」への「対策その一」は、翌日、畑仕事の合間にでもすることにして、私は解体屋を解放しました。

              〜次回に続く〜

2006年7月10日 (月)  暖炉解体 6

                   〜前回からの続き〜

木曜日の夕方、新しい煖炉の設置後。

「随分小さいな。これじゃ、俺たちが切り出した薪は、入らないんじゃないか?」
帰宅した夫B氏は、新しい煖炉を見るなり、不満そうに言います。

「みんつ、この煖炉は絶対中古だぞ。ここを見てみろ、すすが付いているだろう。俺は、大家がただ同然で、この煖炉を手に入れたと見たな。買ったとしても、かなり安かったんじゃないか。それで前の煖炉を壊すことにしたんだな」
見ると、煖炉の中の薪を置く場所が、あちこち黒ずんでいます。

「一度に大きな火は焚けそうにないし、こりゃ、みんつの仕事が増えるけど、大丈夫か?」
「うん、昼間は良いけどさ、夜中はどうする? 朝起きたら、部屋の中、きっと寒くなってるよね。昼間にしても、前みたいに、煖炉だけで三部屋暖房は、無理かも知れないよね。電気の暖房器具を入れるには、うちの電圧、容量が足りないと思うけど、どうする?」
そう聞く私に、B氏は苛々とした様子で言いました。
「これだから賃貸は嫌なんだ。俺は、今すぐにでも家を建てて、こんな所出て行くぞ!」
……あれ、そういう展開になるの? ええと、そんな理由で家が建つなら、私としては、こんな煖炉も大歓迎だけど。

「B氏、まだ駄目だと決まった訳じゃないよ。見掛けは不安だけど、ひょっとしたら、私達が想像もしていなかった程の『スーパー・煖炉』かも知れないじゃん。しょぼい風に装ってはいるものの、先進国スイスのハイテク機能を駆使した、『キング・オブ・ザ・煖炉』って可能性だって、まだ捨てられないし。ここは一応冬まで待って、試してみないと」
「試してみて駄目だったら、どうするんだ?」
「その時は、大家と掛け合うよ」

「掛け合ったって、もう、一度設置した煖炉は、どうにもならないだろう。冬まで待って引っ越しなんて事になったら、俺は嫌だぞ。どうせ引っ越さなくちゃいけないなら、夏の内にした方が良いじゃないか」
「B氏、それは無理だよ。もちろん引っ越しは出来るけど、そんな風に突然出て行ったら、大家はもちろん、村の人は誰も良く思わないよ。そうなったら、将来私達がこの村の付近に家を建てるのは、絶対無理だよ。大家の住む地域も無理だね。それどころか、色んな所に村の人達の親戚がいて、私達の住む地域は、かなり限定されちゃうかもよ。B氏、ここは田舎なんだよ。どんなに私達が正しくても、もめたり、大家を悪者にしたりして出て行くのは、愚かなんだよ」

「そんなこと言ったって、冬に引っ越しなんて、俺は嫌だぞ」
「B氏、嫌だろうが何だろうが、そうしなければならないのなら、諦めるしかないのよ。私達は、この煖炉を試さずに出て行くことは、出来ないの。そんなことしたら、大家も下の階に住むお婆ちゃんも、この村の人も、みんなが敵になるわよ。でもね、もし、もめないで事情を納得させることが出来たら……実際、煖炉が役に立たないんじゃ、住めないわけだし……この村の中での引っ越しも、不可能じゃないわよ。ここのお婆ちゃん達は、みんな大きな家に一人暮らしなんだから、誰かが気の毒に思って、部屋を貸してくれるって事だってあるかも知れないし。そのためにも、私が手を回して置くから」

「みんつは、雪の中の引っ越しがどんなものか、知らないからそんなことを言うんだ。俺は、夏の間に引っ越す!」
「B氏、だからそれは出来ないの。どうしてもそうしたいのなら、都会に部屋を借りるのね。でも、私は付いて行かないわよ」
「みんつは、こんな煖炉で良いのか?」
「だからそれは、試してみないと、大家も納得しないでしょう。B氏は、私を信じてれば良いわよ。私は、だてに10年間もスイス人ともめてたわけじゃないんだから」

この夜、私とB氏は堂々巡りの論議を何度もし、引っ越しこそしないと了解させましたが、最後までB氏は、私の案に不安の色を見せていました。

                   〜次回に続く〜

2006年7月11日 (火)  暖炉解体 7

                    〜前回からの続き〜

翌日、私が畑にいると、いつもの様に下の階に住むお婆ちゃんが出て来ました。
「新しい暖炉は、もう来たのでしょう? どんな具合?」

はい、私が待っていたものは、予想通りきっちりとやって来ました。
冬になって煖炉の能力が不十分であると分った場合、大家に何らかの対策を取って欲しいという、「希望その二」への「対策その一」を取る機会です。

私は、出来るだけ気軽な明るい感じで、それでいて不安が伝わるように言いました。
「うーん、随分お洒落な煖炉が来たんですけどね……小さいんですよ。薪、一度に二本しか入らないと思う」

これでお婆ちゃんには、十分理解出来るのです。
というのも、お婆ちゃんの部屋の煖炉は、私の部屋にあった物と同様の煖炉で、ずっと大きな物なのです。
毎朝一回大きな火を焚くだけで、一日中部屋が暖かいという、古いけれども優れた煖炉で、私の憧れの一品です。
しかもその大きな煖炉で、お婆ちゃんは、私の所よりも広いとはいえ、居間を暖めているだけです。
そして、もちろんお婆ちゃんはお年寄りですから、私よりもずっと寒がりです。

「まぁ、一度に二本じゃ、一日中薪をくべていないといけないわね。それは厄介だね。で、煖炉は、石で出来ているの?」
「それが、石の板が周りに三枚付いているだけで、金属製なんです。部屋が暖まるのは早いだろうけど、冷めるのも早いですよね? 問題は夜中かな?」
「寝室に電気の暖房器具はあるの?」
「ブレーカーがすぐに落ちるから、電気の暖房器具は無理なんじゃないかと……前の煖炉は、あれだけで続きの三部屋が暖まっていたから、必要がなかったし」
「それは困ったねぇ。でも、どうして前の煖炉を取り替えたんだろうね」

どうやらお婆ちゃんも、その理由については、はっきりと知らされていないようです。
実は、解体屋からちらっと聞いたのですが、お婆ちゃんの長女とその夫である大家夫妻は、お婆ちゃんの年齢を考慮すると、「家全体の改築時期もそう先ではない」と思っているようで、今回の煖炉は、それまでの繋ぎなのです。
でもこれは、私の口からは言えませんよね。

「さあ、メンテナンス代が高いからですかね? どっちにしても冬まで待って、煖炉を試してみないことには何も言えないけど……前の煖炉が優秀だったからなぁ」
「そうね、冬になって駄目なようなら、また何か一緒に考えようね」
「はい。また冬になったら、どんな具合か報告しますね」
対策その一は、このぐらいで良いでしょう。
私は、最近我が家の庭に顔を出している、三匹の野良猫たちに、話題を替えました。

今回の私、なかなかツキが悪くないようです。
「対策その二」を取る機会が、その後続けてやって来ました。

                        〜次回に続く〜

2006年7月12日 (水)  暖炉解体 8

                     〜前回からの続き〜

新しい煖炉の設置から、一、二日後のことです。

「母の水道料金が、ここ数ヶ月、急にすごく上がっているのよ。地下にあるメーターを見たいんだけど、入らせてもらって良いかしら?」
玄関を開けた私に、M夫人がにこやかに言いました。
(水道メーターは、二軒分とも我が家の玄関下、地下倉庫の前にあります。)

M夫人は、下の階に住むお婆ちゃんの次女で、私の大家C夫人の妹です。
彼女もC夫人同様、この村からは少し離れた所に夫と住んでいるのですが、C夫人に比べると、気軽にちょこちょこと、自分の母親を訪ねて来ます。

「ええ、もちろん。水道、水漏れですかね? 冬に水道管が凍ったからなぁ……」
私は地下への階段の電気を点けると、M夫人を中に通しました。
「そうそう、新しい煖炉が入ったんでしょう? 良かったわね」

はい、M夫人も知っているんですね、我が家の出来事を。
こういう何も起こらない田舎の村では、ちょっとした他所の出来事は、皆のお喋りにとって、絶好の材料なのです。
まして、我が家のような他所者は、珍獣パンダと同じですから、プライバシーなど誰も気に留めません。
まあ、今更驚いたりはしませんが、こうなると、私の予想も満更見当はずれではないようです。
つまり、これを逆手に取れば、「希望その二」に対する「対策その二」への絶好の機会でもあるわけです。

「ええ、それがですねぇ……」
私は少し口ごもるようにして、今度は明らかに不安を伝えました。
というのは、M夫人が薪の煖炉で暮らしているのか、セントラル・ヒーティング完備の家なのか、私は知らないからです。
M夫人宅がセントラル・ヒーティングの家である場合は、多少大袈裟に話しておかないと、煖炉の実情を理解するのは、難しいはずです。

「実は新しい煖炉、随分小さいんです。前の物みたいに部屋が暖まるのか、正直なところ不安なんですよ」
M夫人にとって、我が家の煖炉の話は、ちょっとした挨拶程度の話題だったのでしょう、私の反応は意外だったようで、M夫人は足を止めました。

「あら、そうなの?」
「ええ、ひょっとすると、何か予備の器具を入れないと駄目かも知れない」
「それは困ったわね」
「まあ、どっちにしても冬になって試してからでないと、本当のところは分りませんけど……ややこしいことにならないと良いな、と思ってます」

「対策その二」は、このぐらいで良いしょうか。
M夫人は、C夫人の妹ですから、必要以上に否定的な話をして、保身に回られても困ります。
私は、雰囲気が重くなり過ぎる前に、この話題を終わりにしました。

そして数日後、夫B氏が不安の色を隠せなかった、私の対策は、意外な結果をもたらしました。

                        〜次回へ続く〜

2006年7月13日 (木)  暖炉解体 9

                   〜前回からの続き〜

新しい煖炉の設置から、一週間と経たない内に、我が家に大家C夫人から電話がありました。
「新しい煖炉が入ったようだけど、私達もどんな物が来たのか知りたいから、今日の夕方にでも、訪ねて良いかしら?」
「ええ、どうぞ。今日は私、一日中家にいますから、いつでも大丈夫です」
「じゃ、後で伺うわ」

その日の夕方、我が家を訪れたC夫人は、煖炉を見るなり言いました。
「こうして見ると、やっぱり小さい感じがするわよね。私達は最初、もっと大きいのを選んだんだけど、煖炉の解体屋さんが、これが一番良いって言うのよ」
しかも、私が驚いたことに、その口調は、言い訳でもしているようなのです。

私の「対策」は、予想通り、大家夫妻の耳にまで届いたようです。
こんなに早く、大家夫妻が二人揃って我が家を訪れたのは、「大家として私達は、貴方達のことをどうでも良いと思っているわけではないのよ」ということを示しておこう、ということなのでしょう。
ということは、「大家夫妻は、私達夫婦に出て行っては欲しくない」と考えても、間違いではないでしょう。
それなら我が家にとっても、事は簡単です。

「夜中に薪をくべられないのが、少し心配ではあるんですけど、どっちにしても試してみないことには、何とも言えませんから。冬になって、2〜3週間ぐらい煖炉を使ってみて、それで駄目だと分ったら、改めてこちらから連絡しますね。その時は、また一緒に何か考えましょう」
「そうね。そうしましょう」
……ふぅ、これで少なくとも、煖炉が役立たずであった場合、大家と穏やかに話し合うことが可能になりました。

「これは、とりあえずの煖炉だから。ほら、その内家全体を改築っていうことになったら、煖炉自体要らないかも知れないし」
側で私達の会話を聞いていた、C夫人の夫が言います。
やはり、改築屋が言っていた、例の噂は本当のようです。
「家全体の改築の話は、どのぐらい現実的なのですか? その、私達は、次の部屋を探さなくてはいけないのかしら?」
私が、「出来ればここに住み続けたいのだけど」という口調で聞きくと、大家夫妻は「心配は要らないよ」という風に笑いました。
「ああ、まだ何も具体的には決まっていないさ。5年先か、10年先か、下の母が生きている間は、改築しないよ」

そして、何と驚いたことに、
「ああ、それと、これ良かったら飲んで」
そう言うと、C夫人の夫は、私に白ワインを差し出しました。
瓶が入っていた箱は、スーパーの袋ではなく、贈答ワインの為のきちんとした箱です。
恐らく、普段我が家が飲んでいるものより、高いワインでしょう。
人づてに回って来た私からの言葉を、大家夫妻は、かなり気にしていたようです。

こういう場合は、「ワインをもらえる理由」など聞くべきではありません。
ワイン一本で釣れるなら、安いものですが、これは気持の問題ですから、今回は簡単に釣られておきましょう。
「えっ、良いんですか!? 今、友人が遊びに来ているから、ちょうど良いです。今夜にでも、早速飲ませて頂きます」
私はにっこり笑うと、有り難くワインを受け取り、大家夫妻と握手して別れました。

その日の夜、帰宅した夫B氏に、私は自慢気にその戦利品を掲げて見せました。
「ふふふ、このワイン、誰からだか分る?」
B氏は首を傾げます。
「下のお婆ちゃん、ってわけはないよな。誰か、昼にでも遊びに来たのか?」
「へへへ、これ、大家さんが飲んでくれってさ」
「え!? 大家が?」
「ね、私に任せておけば、上手く行くでしょう。冬になって煖炉が活躍しなかったら、一緒に相談することになったよ」
「大家、煖炉を見に来たのか? C夫人だけか? それとも、あの旦那も一緒に?」
「二人揃って見に来たよ」
「……」
少しの間B氏は、無言で私を見つめていましたが、その目は明らかに「大したもんだ」と語っていました。

そりゃ、そうです。
私が意味もなく毎日、下のお婆ちゃんや村のお婆ちゃん達と遊んでいると思ったら、大間違いです。
こういう時のために、近所付合いっていうやつをしているのですから。

……この先もきっと、色々と問題は起こるでしょうが、日本vsスイス、まずは日本が先制点ですね。

                       〜完〜

2006年7月14日 (金)  暖炉解体 おまけ

我が家の新しい煖炉です。

「全体」


「正面と横」
 


ね、前の物に比べて、随分小さいでしょう。
(6月30日の日記「暖炉解体 序章」に画像有り)

この煖炉が活躍するかどうかは、冬になってからのお楽しみ。

……厄介な事にならないと良いけど。

2006年7月17日 (月)  ミス・スイス 2006

また、「ミス」の季節がやって来ました。

この女性たちが、2006年度『ミス・スイス』、候補者です。
(* 時間が経った為、画像は外しました。)

今回は、私、敢えてノー・コメントでご紹介します。

各自の画像とプロフィールは、こちらからどうぞ(↓)。
『じゃ、見てみようかな。』
(* 時間が経った為、画像は外しました。)

皆さんからの忌憚のないご意見、掲示板の方で、お待ちしております。
(もう、遠慮なく、ガンガン言っちゃって下さい。)

ちなみに、現在の『ミス』はこの方です。
(* 時間が経った為、画像は外しました。)

2006年7月20日 (木)  突然の訪問客 1

色々と文句を言いながら、それでも私がまだスイスで暮らせているのは、基本的なところで、スイス人と日本人の価値観が近いからではないかと思います。

例えば、公共の場では、静かに礼儀正しくするとか、割り勘の場合、お金を少し多目に出して置くとか、他人には親切にしておくとか……やり方は違っても、根本的な思いは同じ場合が多いのです。

今回は、それを再認識することになった出来事が、我が家に起こりました。

日曜日の昼過ぎ、私達夫婦はチューリッヒの郊外にいました。
知人が企画した「散歩会」に参加したからです。
スイス人6人(1人はフランス語圏)、ドイツ人3人、ロシア人2人(夫婦)、日本人1人(私)と、参加者は12人です。

友だちと言って良い人もいれば、この日初めて知り合った人もいます。
皆、前に行ったり後ろに行ったりし、ドイツ語、英語、フランス語、ロシア語と相手に合わせて言語を替え、和やかにお喋りをしながら、森や草原を歩きました。

私も同じ様にして、色々な人と交流していると、ロシア人男性A氏が私の所にやって来ました。
「貴方は、日本から来たのですよね? 日本の、どの辺ですか? 僕は、モスクワから来ました」
そんな風に会話が始まり、私達夫婦がグラゥビュンデン州に住んでいるという所に話が行った時、A氏は言いました。
「僕らは今日、電車でそっちの方に行く予定なのですけど、帰り道、車に一緒に乗せてもらっても良いですか?」

正直に言うなら、私は車に酔いやすいですから、気心の知れぬ人と同乗するのは、あまり好きではありません。
しかし、こういう場合、大抵の人が快く了承するのではないでしょうか。
彼らが行く予定であるクールという街は、私達の通り道でもありますし、ちょっとした親切というのは、持ちつ持たれつです。
「ええ、もちろん」
私は快く言いました。

その後、二、三言交わし、私達はどちらからともなく、別の人とお喋りを始めました。
ちなみに、レストランでの二回の休憩も含め、散歩の間、私達が話したのは、その時だけです。
A氏の妻、E譲とは、もう少し個人的な事柄を話したのですが、どうやら彼らは、二人とも大学で美術史を教えているそうです。
実は、スイスに来る外国人というのは、日本人を含め、案外エリートが多いのです。
私の様な労働者の娘は、少数派なのかも知れません。

散歩会が終わり、皆、それぞれの車で家路に向かいました。
私達の車には、もちろんロシア人夫妻が同乗しますので、私はそれを夫B氏に伝えました。
「B氏、さっきA氏から、帰りの車に一緒に乗せてもらえないかって、聞かれたんだけど、良いよね?」
「ああ、知っている、俺も聞かれたから。ひょっとしたら、うちに二泊したい様なことを言っていたけど、それも聞いた?」
「え、二泊って、いつ?」
「明日か明後日か、どこかからの帰り道か……。何日間かグラゥビュンデン内を観光するらしいんだ。その途中で、うちから行った方が近い場所がいくつかあるから、その時だと思うよ。今夜は、どこかの修道院に予約してあるらしいから、早くても明日じゃないかな」
「うん、二泊ぐらい、良いんじゃない。スイスのホテルは高いし」

4人が車に乗り込み、暫く走った頃、A氏が言いました。
「B氏、携帯電話を借りても良いかな? 今夜の修道院をキャンセルするから」
……ん? 今夜の修道院をキャンセルって、このまま我が家に来るって事? 途中の街で下ろしてくれっていうのは、どうなったの?

少し不思議に思いましたが、B氏は、疑問もない様子で携帯電話を渡しています。
私はそのまま、何となく流される感じで、A氏を見守りました。

               〜次回に続く〜

2006年7月21日 (金)  突然の訪問客 2

                      〜前回からの続き〜

B氏の携帯電話を手にしたA氏は、鞄からごそごそと何かを取り出すと、電話をかけ始めました。
が! 何と!!
A氏が片手に持っているのは、自分の携帯電話なのです!
A氏は、自分の携帯電話に入れてあった修道院の電話番号を見ながら、B氏の携帯電話で、その修道院に電話しているのです。
……何で? 何で自分の携帯で、電話しないの? ロシアの携帯電話は、スイスでは使えないとか?

私が戸惑っていると、幾らも経たない内に、A氏は電話を切って言いました。
「修道院、電話番号でも変えたのかな? 繋がらないみたいだ。みんつさんの家には、インター・ネットはありますか?」
……当日のキャンセル電話を、たった一回掛けて繋がらなかったからといって、終わりにして良いの? もう少し誠意というか、普通は、二、三回試さない? 修道院みたいな場所って、そんなに簡単に電話番号、替えないと思うけど。

「ええ、ありますけど」
「じゃ、修道院には、家に着いたらメールで連絡することにしよう」
……家に着いたらメールするってことは、やっぱり今夜、うちに泊まるってことよね? いますでに19時過ぎだけど、こんなドタキャンで良いの? そもそも、そういうことを奥さんに相談しないで決めちゃって、良いの? それとも、私達の車に乗る前に、奥さんとは相談済みとか? 否、こういう場合、キャンセルの連絡が付かないんだから、修道院に泊まるのが順当じゃないの?

何だかしっくりしなかった私は、思い切って聞いてみました。
「あの、修道院の方、当日キャンセルしても大丈夫なんですか? 向こうも準備とかあるだろうし、こんな時間にキャンセルしたら、迷惑が掛かるんじゃないかしら?」
「ああ、大丈夫、大丈夫」
A氏は、私の言葉などまともに取らず、何やら一人でごにょごにょ言うと、B氏に携帯電話を返しました。

押し切られたような感じでことが進み、私には幾らか不本意でしたが、この夫妻を途中の街で下ろすのは、どうやらもう無理な様です。
「あの、今夜うちに泊まるのは良いんですけどね、部屋、片づいていないですから」
私が半分自嘲気味に言うと、彼らはからっとした調子で答えました。
「そんなのは大丈夫! 僕らは、改装中の家に泊まったこともあるから」
……ああ、これは、確信犯なんじゃないのかな? 修道院って、本当に予約したの? チューリッヒの知人宅で、私達の話題が出た時に、既に泊まろうと決めていたんじゃないの?

高速道路を2時間少し走り、日暮れ前に、私達は家に着きました。
車から降りた二人は、目の前に広がる山脈を見て、感動したようです。
「僕の夢は、山の上に住むことなんです」
そういうA氏の隣で、妻のE嬢は、初めて見るパノラマに声も出ないという風でした。

家の中に入ると、急いで客用にベッドを整えたり、タオルを出したり、滅茶滅茶になっている台所を片付けたりしている私などお構いなしに、美術史が専門だという二人は、B氏の本棚に直行しました。
そして、何冊も並んでいる画集や、古い建築物の本から数冊を抱えると、居間で熱心に読み始めました。

その後、ビールとワインを空け、夕飯を食べ、食後のグラッパ(イタリアの強いお酒。私の住む州でも、地元産のものがあります)を飲むと、A氏が聞きます。
「B氏は明日の朝、何時に家を出ますか? 最寄り駅まで、僕たちも一緒に行きます」

私の住む村には、駅のある町までのバスが出ていますが、本数も少ないですし、まあ、お金も幾らかかります(千円弱位)。
ほんの少し回り道ではありますが、B氏は車で出勤するのですから、同乗してはいけない、ということもないでしょう。
私は、帰りのバスについてだけ教えることにしました。
というのも、私の住む村へのバスは、少し離れた近隣の村々をぐるりと回って走りますので、バスに書かれた目的地の名前が、知らない人から見ると、村とは逆方向なのです。

「帰りのバスだけどね」
「ああ、明日の帰りは、何時になるか分りません!」
まだ私が何も話さない内から、A氏が強い調子で遮りました。
「でも、どのバスに乗ったら良いのか、知って置いた方が良いでしょう?」
「ああ、それなら大丈夫です。ちゃんと分っていますから」
……初めて来た村で、しかもこんな突然の訪問で、バスについてなんて、知っているわけないじゃん。

B氏が夜中に呼び出されても嫌ですし、仕方がないので私は、E嬢にそっと、何処行きのバスに乗ったら良いか教え、その晩はベッドに入りました。

                  〜次回に続く〜

2006年7月24日 (月)  突然の訪問客 3

                   〜前回からの続き〜

月曜日の朝、出勤するB氏と一緒に出て行ったロシア人夫妻は、私達夫婦が夕飯を済ませ、テレビのスポーツ・チャンネルでK1を見ている頃に、帰って来ました。

「今夜の帰宅は、何時になるか分らない」と言っていましたし、昨夜のA氏の強い口ぶりですと、そういうことに干渉されたり、拘束されたりするのは好きではない、という風でしたので、私は、特別彼ら用には、夕飯を用意していませんでした。
ただ何となく、もしもということもあると思い、自分たちの分を多目に作っておきました。

「夕飯は、もう食べた?」
一応そう聞く私に、E嬢が答えます。
「いいえ、食べていません。前回の食事が何時だったのかも、思い出せない程だわ」
……ええと、これは、思いっ切り空きっ腹で帰宅した、と解釈して良いのでしょうか? 

「私達の残りがまだあるけど、良かったらどうぞ」と言う私に、二人は「これは何の肉だ?」「これは、何という野菜だ?」「これは和食か?」などと聞きながら、ビールとワインを飲み、豚の生姜焼きとカステラをしっかりと食べました。

食事が終わると、A氏はおもむろに携帯電話を取りだし、カチャカチャとやりながら私達に言います。
「携帯で電話をすると、高いからね。SMSを送っているんだ」
……やっぱり。携帯電話の料金を節約するために、昨日は車の中から、B氏の携帯電話で修道院に電話したのね。

「B氏、明日の朝も一緒に出ますから。それと、明日は今日より早く戻ります」
その後、シャワーを浴びた二人は、そう言って部屋に引き上げました。
……あれ、2泊じゃなかったの? 明日も戻るってことは、3泊よね。そういう打診は、ないのね?

火曜日の夜、早目に戻った二人は、再びB氏の本棚に直行です。

手みやげを持って来いとは言いませんが、せめて一言、「何か手伝いましょうか?」とか「今夜は私がロシア料理でも」などというのを期待する私が、非常識なのでしょうか?
今夜は最後の夜の筈です。
……個室で朝晩の2食付き+B氏の車での送りかぁ。うちは、ホテルよりも良い待遇かも。

夕飯を食べながら、A氏は自分たちが見て来た場所に関して、蘊蓄を語り始めます。
出会った日からそうなのですが、このA氏、不思議なことに、どんな話題でも何でも知っているのです。
この日二人が観光して来たのは、私達が前に住んでいた村近郊で、私達が「あそこに行くなら、こことここを見ると良いよ」と教えた場所なのに、A氏は私達よりも詳しく知っている、という語りぶりなのです。

どういうことかと言いますと、
もちろん前に住んでいた村付近のことです。私達だってある程度知っていますから、自然と会話を盛り上げるように、言葉が出ます。
ところが、話題に合わせて私達が口を挟むと、A氏は「ああ、知っている、知っている」と言って遮り、私達が黙ると、自分の知っていることを語って聞かせるのです。
しかしそれは、私達も知っていることなのです。

そんな具合ですから、自然と私達夫婦は、A氏の妻であるE嬢と話をし始めます。
ところがこれは、どうもA氏、お気に召さないようです。
何となくE嬢の前に出しゃばるような感じで、会話を自分の方に持って行ってしまいます。

「A氏は良いから、E譲と話がしたいな」
私達がそう思い始めた頃、E嬢が言いました。
「ロシアのこと、興味ありますか? 私のPCに、大学で使う画像がたくさんあるのですけど、見ますか?」
「はい、見たいです!」

私達夫婦は、口を揃えて言いました。

                      〜次回に続く〜

2006年7月25日 (火)  突然の訪問客 4

                〜前回からの続き〜

「こんなに良くしてもらって、何もお返ししないのでは、心苦しいので」
そう言ってE嬢は、私達にロシアの教会画を見せながら、一つずつ熱心に説明し始めました。

その様子からは、彼女が自分の仕事を、如何に情熱を傾けてしているのかが、良く伝わって来ました。
その手の分野に詳しくない私ですら、彼女の講義はきっと興味深いものであるに違いない、と感じるほどです。

私達夫婦が、E嬢と心地良い時間を過ごしていると、やはり気になるのでしょうか、テーブルの向かい側で画集を読んでいたA氏が、ラップ・トップのこちら側に回って来ました。
A氏は、この夜まで見せたこともなかった親密さでE嬢の肩を抱くと、コンピューターの画像を覗き込み、何やらロシア語で話し出しました。

その様子は、どうやら、どの画像を私達に見せるべきか、教えている様なのですが……
私達夫婦は、E嬢が選んで見せてくれている画像に不満はありませんでしたし、彼女の選択は、決してA氏のそれに劣らないと思うのです(実際彼女は、『ハイラト』とでも言えるものを見せてくれていたのです)。
正直に言ってしまうなら、私の目には、A氏の態度は、E嬢に指図しているとすら映りました。

A氏の示す画像を開き、E嬢が説明を始めると、今度はまた、横からA氏がロシア語で口を挟みます。
どうやら今度は、E嬢の説明不足を補っているようなのですが……
これがまた、偉そうな言い方とでも言いましょうか、私はロシア語が分りませんから、ひょっとすると勘違いなのかも知れませんが、同じく美術史の講師である自分の妻に、まるで教え諭すかのような話し方なのです。
……うぇ、私生活で夫からこんな話し方されたら、私なら喧嘩になるわ。家に帰ってまで、先生は欲しくないもの。

ところがE嬢、A氏の邪魔を気にする様子でもなく、適当にあしらいながら、自分のしたいように説明を続けます。
……あぁ、このぐらいの神経がないと、A氏とはやって行けないのね。いやぁ、E嬢が違うタイプのロシア人で良かったわ。でなければ、ロシア人が嫌いになるところだったわ。

そんな風に二人を観察しながら、私はその夜、ロシアの有名らしき作品たちを楽しみました。

水曜日の夜、ロシア人の嵐も過ぎ、帰宅したB氏に私は言いました。
「あの二人、悪い人じゃないんだろうけどさ、帰ってくれてホッとしたわ」
「ああ、俺もだ。E譲は良いんだけど、A氏は、ありゃ、参ったな」
「うん、私もね、E嬢だけなら、もう2、3泊して行ってくれても良かったけど、A氏は二度とゴメンだわ」

「あのね、B氏、これはお国柄なんだろうから、あんまりこういうこと言っちゃいけないのかも知れないけどね、日本では、A氏みたいな人は、卑しいっていうか、恥ずかしいことだって教えられるのよ。ほら、ほんのちょっとでも相手からより多く取ろう、みたいな感じだったでしょう。ああいうのは、いけないことだって躾られるからさ、やっぱり抵抗感があるわ」
「それは、スイスでも同じように躾られるよ。キリスト教、特にカソリックの教えでは、ああいうのはgierig(ギーリック:貪欲な)って言って、大罪なんだ」

「ふーん。やっぱりさ、こういうところは、スイス人と日本人、近いよね。相手よりも少し多目に払って置いた方が気楽とか、出来るだけ他人には迷惑をかけないようにするとか、遠慮とかさ……まあ、それでがんじがらめになっちゃってる部分も、確かにあるんだろうけどさ」
「そうだな。大体、毎日自分たちのヨーグルトを、2つだけ買って帰って来るなんて、スイス人には恥ずかしくて出来ないぜ」

「そうそう、二人から連絡先とか、もらった? 出掛けに、是非モスクワに来て下さい、って言っていたけど」
「おお、ちゃんともらったよ。……でも、みんつは、モスクワに行きたいのか?」
「うーん、モスクワどうこうよりも、A氏宅に滞在は、ちょっと遠慮したいかも。だってA氏、自分ばっかり喋って、うるさいんだもん」
「あいつはホント、人の話を聞かなかったな。この次ああいうのが来たら、はっきり断ろうな!」

……こうしてみんつ夫妻は、再度結束を強めましたとさ。
めでたし、めでたし。

2006年7月28日 (金)  猫、現る。 1

基本的に、スイスに野良猫は居ません。
野良では、多分、長く厳しい冬を生き延びられないからだと思います。
ですからスイスで猫を飼う場合は、知人や動物の家(捨て猫等がいます)から貰ったり、買ったりします。

しかし、私の住む村の様な田舎では、時には野良猫がいます。
何故か?

田舎の酪農家は、大抵犬だの猫だのを飼っているのですが、どちらも放し飼いです。
犬は大切な労働力(牛追い用)ですし、登録の義務もありますが、猫にはそれがありませんので、去勢等せずに放ったらかし、という場合も多いのです。

そういう猫が子供を産み、それがいわゆる野良猫となるのですが(正確には、xx家の猫の産んだ猫、ということですが、そんなことは誰も気にしません)、水は至る所に泉がありますし、食料はねずみや鳥を狩り、厳しい冬には牛小屋で眠ります。
ですから、田舎では、野良でも生き延びられるのです。

そんな野良猫達ですが、自力で狩りの出来ないものは、それなりに淘汰されます。
また、酪農家が、仔猫が増え過ぎたと感じた場合は、首を捻って数を調整したりしますので(こういうところ、スイスの酪農家は非情です)、増え過ぎて問題になる事は、あまりないようです。
簡単に言うなら、場所があるという事ですね。

ところが最近、この野良猫達が、我が村で少し問題になりました。
私が小耳に挟んだところでは、こういう事です。

定年後に都会から越して来た男性が、この野良猫達にずっと餌をやっていたのですが、最近亡くなってしまったのです。
このお爺さんが餌を与えていた為に、自力で狩りの出来ない猫も生き延びていたのですが、この猫達が、餌を求めて村の家々を徘徊し始めたようなのです。
困った村人達は、相談して、この猫達に毒を盛ったとか盛らないとか。

そして、事が収まったかに思えた頃、我が家の庭に、見知らぬ猫が一匹現われました。
薄い茶トラの、殆どオレンジ色に見える、がっちりした雄猫です。
どうやら、毒入りの餌を食べなかった猫もいるようです。

この猫はかなり警戒していて、私が触れる距離には来ませんが、それでも追い払われたり、水を掛けられたりしないことが分ったのか、我が家の庭でくつろいでいました。
私はかなりの猫好きですし、野良猫が庭で寝ていても、問題はないように思いましたので、この日はその猫をそのままにして置きました。

数日後のことです。
また例の猫が、我が家の庭にやって来ました。
ところが、何かが変なのです。

……ん??? この前より、小さくなった?
痩せたというより、一回り小さくなった感じなのですが、この間の猫とそっくりです。
その猫もやはり警戒して、側には寄って来ませんでしたが、庭でくつろいでいましたので、私はやはり放って置きました。
大きさは、きっと私の勘違いでしょう。

そのまた数日後、再び同じ猫がやって来ました。
「みゃぁ〜っ!」
勢いの良い声で鳴いたかと思うと、その茶トラは、真っ直ぐに私の所に来、鼻面をすり寄せます。
……え? 三回目でいきなりなつくの??

ひっくり返って、お腹まで出すその猫は、今日は明らかに痩せています。
この間小さくなったと感じたのは、やはり痩せたからでしょうか?
戸惑いながらも、猫を撫で始めた私は、何となく気配を感じ、顔を上げました。

と!!!
そこには、何と、同じ猫がもう二匹いるのです!!

一匹は、最初に見たがっちりした雄猫、もう一匹は、その雄猫よりも一回り小さい仔猫、私の撫でているのは、その二匹よりも少し色が濃く、大きさは二匹の中間といった、痩せた猫です。
そしてその三匹は、見るからに同じ親から産まれたという感じで、三匹並べてみなければ、違いが分らない程そっくりなのです。
……ううっ、これは、茶トラ三兄弟?!

                    〜次回に続く〜

2006年7月31日 (月)  猫、現る。 2

                   〜前回からの続き〜

茶トラ三兄弟は、長男がちょうど雄猫の仲間入りをしたところ、次男が雄に成りかけ、三男はまだ仔猫という体格です。
毛並みは、次男こそ普通の茶トラですが、長男と三男はかなり薄い色で、渦巻き模様もありませんから、オレンジ色の猫にすら見えます。
そして、この三兄弟、なかなかの器量良しです。

それから数日間、私は毎晩のように、帰宅する夫B氏に猫の様子を報告しました。

「例の野良猫ね、少なくとも三匹いるみたいだよ。しかも、その三匹は兄弟と見たな。どう思う?」
「どう思うって、飼うかどうかって事か?」
「うーん、というか、野良で生き延びられるのかな? 一匹はね、まだ小さいよ。自分で餌、取れるのかな?」
「みんつは、飼いたいのか?」
「猫は、いずれ二匹飼うつもりでいるけど……今の部屋は一生住む訳じゃないし、時期が悪いよね。それに私は、白猫が欲しいんだもの。B氏は、サバが良いんでしょう?」

「じゃ、放っておくか?」
「長男はもう立派な雄みたいだから、このまま一人でやっていけると思うんだ。私の側にも寄って来ないし、飼って欲しそうでもないし。次男はすごくなつっこいから、誰かが飼ってくれそうじゃない? 問題は、三男だと思う。警戒してはいるけど、うちの庭にずっといるんだよね。垣根に沿って植え込みがあるでしょう、どうもね、あそこに住んでいるみたいだよ」

「どっちにしても、面倒を見るのはみんつだから、好きなように決めて良いぞ」
「うーん、じゃ、このまま冬まで様子を見て、みすぼらしくなって行くようなら、自力で餌が取れないって事だから、うちで飼う事にしようよ」
「分った。で、もし飼うとしたら、何匹飼うんだ? 三兄弟なんだろう?」
「一応今は、三男だけって思っているけど……次男と三男は、良く一緒にいるんだよね」
「じゃ、二匹か?」
「否、茶トラ二匹は……私、一匹は白猫って決めているから」
「じゃ、二匹を引き離すのか?」
「うっ、それは」

覚えている方もいるでしょうが、以前の家に住んでいた時、私達夫婦は友人の猫を二匹預かっていました。
毛足の長い、ちょっと高そうな黒猫L氏と、ごくごく普通の白猫I氏です。
このI氏の性格が、ものすごく可愛らしくて、私はL氏に気を使いつつも、溺愛していたのです。
ですから、いつか猫を飼う日が来たら、私はもう一度、I氏にそっくりな白猫を飼いたいと思っていて、既に名前も決めてあるのです。

もしこのオレンジの猫を飼うとしたら、B氏にはサバ柄を諦めてもらって、白とオレンジで……そうは思うものの、いつも一緒にいる二匹を引き離すのは、確かに出来ません。
茶トラ二匹に白一匹……家に猫三匹は、私の感覚では、多過ぎます。

さて、どうしたものでしょう?

いっそ、この三兄弟はやめて、やはり当初の予定通り、白とサバか……否、きっと次男は誰かにもらわれるから、やはり白とオレンジで……でも、兄弟は一緒の方が……そうなると、茶トラ二匹か……

私は毎日のように、庭にいる猫達を眺めながら、そんなことを考えていました。

                     〜次回へ続く〜

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